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生まれたり死んだり去ったり来たりするのは、光明が去ったり来たりするのである『第十五光明』15-2-5b

 〔『聞書』私訳〕

/「修証はなきにあらず、光明の染汚なり」とは、このことはどういうことか。「修証はなきにあらず、染汚することえじ」と言い、今は「光明の染汚なり」と言うが、どこがどう違うのか。


この「修証」は「証」であるから「染汚することえじ」と言う。今、「光明の染汚なり」と許すのは「証」を待つ「修」ではなく、「尽十方界、是自己光明」という「光明」であるから「光明の染汚なり」と許すのである。


「尽十方界」が「光明」に「染汚」される意味は、「光明」が「光明」に「染汚」されるというようなことであり、坐禅が坐仏であるのと同じである。このように心得た後なら、「証」を待つ「修」であるとも言うことができよう。その待つことは、「光明」が「光明」を「染汚」するほどのことである。


/「草木牆壁、皮肉骨髄、これ光明の赤白なり」とは、

この「赤白」は色に限らない、

「草木・牆壁、皮肉・骨髄」であるからである。


/「烟霞水石、鳥道玄路、これ光明の廻環なり」とは、これらを総括して「光明」と言うので「廻環」である。「是自己は尽十方界なり。廻避の余地あるべからず。たとひ廻避の地ありとも、これ出身の活路なり」とは、「光明」でない「尽十方界」はないということである。「たとひ廻避の地ありとも」、「光明」の「出身の活路」なのである。


/「而今の髑髏七尺」とは、この「而今」は「尽十方界真実人体」の我々のことであり、今日の我々のことではない。「七尺」と指すのは、「尽十方界の形」であるから、「尽十方界」も「七尺」であるということである。

/「尽十方界は、髑髏形骸、皮肉骨髄なり」とは、「尽十方界」が全身と言うからには、「髑髏形骸、皮肉骨髄」となるのである。


〔『抄』私訳〕

「自己の光明を見聞するは、値仏の証験なり、見仏の証験なり」とある。

「自己の光明」とは、今の「長沙」の「尽十方界は是自己光明」を指すのであり、この言葉を讃嘆されるのである。


「尽十方界は是自己なり。是自己は尽十方界なり。廻避の余地あるべからず。たとひ廻避の地ありとも、これ出身の活路なり」とある。


文の通りである。つまり、「尽十方界」と「自己」を引き離すことができない道理が理解されるのである。そうであれば、また、「廻避の余地あるべからざる」ことは当然である。「たとひ廻避の地あり」と言っても、これも「尽十方界」であり、これも「自己」なのである。


「而今の髑髏ドクロ七尺、すなはち尽十方界の形ケイなり、象ショウなり。仏道に修証する尽十方界は、髑髏形骸ケイガイ、皮肉骨髄なり」とある。


今、「髑髏」という言葉が出てくるのは、「尽十方界是自己光明」という「自己」の言葉に付いて呼び出されるのである。この今の「髑髏」は、また凡人が考えるどくろになぞらえてはいけない。


「尽十方界」をもって「髑髏」と解すべきである。今の「七尺」と「尽十方界」とに、まったく広狭多少の意味はない。



                    合掌


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