〔『聞書』私訳〕
/「文公無対」とは、「いかならんか是れ仏光」というほどの「無対」である。「いかなるも仏光」であるからと心得るべきか。
〔『抄』私訳〕
初めはまず、「韓愈文公」を讃嘆されるのであり、文の通りである。
ただ、この「無対」の所はよく分からない。その力があればこのように言うはずだといって、先師がその理を述べられるのである。
「韓文公」が、「仏光は青黄赤白にあらず」と言えば、「仏光」の外に「青黄赤白」があると思われるが、これを嫌われるのである。
「仏光」を見て「青黄赤白とすることなかれ」とは、「仏光」は「仏光」であり、「青黄赤白」とすべきではないというのである。
『現成公案』の巻で、「宝徹禅師扇を使ひしに、風性常住無所不周底なり、和尚なにとして扇を使ふと言いしに、汝風性常住は知れりとも、未だ所としていたらずということなき道理を知らず」と言った時、「いかならんか無所不周底の道理」と問うた時、また扇を使った(具体で示した)道理に今の「青黄赤白」の道理も違わないのである。
「いかならんか仏光」と問う時、「青黄赤白これなり」と答えるようなことである。
合掌
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