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初祖達磨大師が自ら西方のインドから南海の広州に来られた『第十五光明』15-1-2a

〔『正法眼蔵』原文〕

 震旦国、後漢の孝明皇帝、帝諱は荘なり、廟号は顕宗皇帝とまうす。


光武皇帝の第四の御子なり。


孝明皇帝の御宇ギョウ、永平十年、戊辰ツチノエタツの年、

摩騰迦マトウガ、笠法蘭ヂクホウラン、はじめて仏教を漢国に伝来す。


焚経台フンキンダイのまへに、道士の邪徒を降伏ゴウブクし、諸仏の神力をあらはす。


それよりのち、梁武帝の御宇、普通年中にいたりて、

初祖みづから西天より南海広州に幸す。


これ正法眼蔵正伝の嫡嗣チャクシなり、釈迦牟尼仏より二十八世の法孫なり。


ちなみに崇山スウザン少室峰少林寺に掛錫カシャクしまします。


法を二祖大祖禅師に正伝せりし、これ仏祖光明の親曾シンゾウなり。



〔『正法眼蔵』私訳〕

中国、後漢の孝明皇帝は、いみ名(死後の尊称)は荘、

廟号(廟の称号)は顕宗皇帝と言う。光武帝皇帝の第四の御子である。

(震旦国、後漢の孝明皇帝、帝諱は荘なり、廟号は顕宗皇帝とまうす。公武皇帝の第四の御子なり。)


孝明皇帝の御世ミヨの永平十年(西暦六十七年)戊辰ツチノトタツの年に、

迦葉摩騰と竺法蘭が、初めて仏教を漢の国に伝えた。

(孝明皇帝の御宇、永平十年、戊辰の年、摩騰迦、笠法蘭、はじめて仏教を漢国に伝来す。)


焚経台の前で、道教の道士の邪教の徒を降参させ、諸仏の神通力を現した。

(焚経台のまへに、道士の邪徒を降伏し、諸仏の神力をあらはす。)

〔焚経台で道教の書物と仏教の経典を燃やし、道教の書物は燃えたが、

仏教の経典は燃えなかった、という故事をいう。〕


それから後、梁の武帝の御世、普通(元号)年間に、

初祖達磨大師が自ら西方のインドから南海の広州に来られた。

(それよりのち、梁武帝の御宇、普通年中にいたりて、

初祖みづから西天より南海広州に幸す。)


これが正法眼蔵を正伝する正統な後継者であり、

釈迦牟尼仏より二十八代目の法孫である。

(これ正法眼蔵正伝の嫡嗣なり、釈迦牟尼仏より二十八世の法孫なり。)


その時、蒿山の少室峰少林寺に掛錫(滞在し修行)された。

(ちなみに崇山少室峰少林寺に掛錫しまします。)


法を二祖大祖禅師に伝えられた。

これが仏祖の光明に親しむ始まりである。

(法を二祖大祖禅師に正伝せりし、これ仏祖光明の親曾なり。)


初祖達磨大師が自ら西方のインドから南海の広州に来られた『第十五光明』15-1-2b


                   合掌


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