〔『聞書』私訳〕
/「慧徹禅師」の段である。
「大宋国石門山の慧徹禅師に、ちなみに僧が問う、如何是山中宝」とある。
この言わんとする所は詳しくこの巻に見える。つまり、「山中」はよく分からないことではなく、世間の山中と心得て、「宝」をどういうものかと問うのに似ている。しかし、そうではない。
この「山中宝」の三字は「仏」という一字と心得るべきである。「山中」と「宝」は、彼此(あれとこれ)能所(主体と客体)が別ではない。「翳」と「華」、「空」と「地」は、別ではない道理と心得るべきだというのである。
/「蓋国買ふに門無し」とは、国を買おうとしても、値する物がないというようなことである。どのような物が国を離れて、別に値する物があろうかというのである。「空華地より生じる」からには、値する物がないようである。
〔『抄』私訳〕
「大宋国石門山の慧徹禅師は、梁山下の尊宿なり。ちなみに僧ありてとふ、「如何ならんか是れ山中の宝」。この問取の宗旨は、たとへば、「如何ならんか是れ仏」と問取するにおなじ、「如何是道」と問取するがごとくなり。師いはく、「空華地より発け、蓋国買ふに門無し」。この道取、ひとへに自余の道取に準的すべからず」とある。
文の通りである。「如何是山中宝」の言葉は理解しがたい。「山中宝」とは何を言うのかと思われる。もっとも、「仏と問取」し、「道と問取するがごとし」とあるので、疑うべきもない。
「山中」と言うからといって、一般の「山中」と心得てはならない。全世界とも心得るべきである。「宝」もまた金銀珍宝などの「宝」ではない。仏法僧の中の「宝」とも心得るべきである。
また、「空華地より発け、蓋国買ふに門無し」の言葉は、「空華地より発け」とは、「空華」と「地華」は同じ法である道理をもって、「空華地より発け」と言うのである。
「蓋国買ふに門無し」とは、たとえば全国と言うようなことである。祖師の言葉で、常に「買」という言葉をしばしば使う。つまり、全てが国である道理をもって「買」とも「無門なり」とも言うのである。この「買」とも「無門」ともと言う道理は、「買」の外に何もない道理をこのように言われるのである。「出入に門無し」などと言うのと同じ意である。
合掌
ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。

コメント
コメントを投稿