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涅槃と生死は空華である『第十四古鏡』14-5-5b

 〔『聞書』私訳〕

/「涅槃生死是空華」と言う、

この釈で、「涅槃といふは、阿耨多羅三藐三菩提なり。仏祖および仏祖の弟子の所住これなり」とある。また、「いま見聞する三界は、空花の五葉開なるゆゑに不如三界、見於三界なり」とある。


「諸法」は「実相なり」、また「この諸法」は「華相なり」と、「実」の字を「華」の字に取り替えられた。「空華」と言えば、何もないものと理解して妄見が起こると思うが、そうではない。「空華」と「梅柳桃李」は同じである。


また、「地花といはむ空花、地空共に開発せしむる宗旨なり」とある。「空華」は「梅柳桃李」と同じようなのものと理解するのである。


また、「生死を厭い涅槃に入るというのも、世間の道理、あるいは生死涅槃は、なお昨夜の夢の如し」とも言い、昨夜の夢の意と「空華」の意は同じなのである。宗門では、「涅槃は空華なり、生死は仏の真実人体なり」と言うのである。


「不如ゴトクナラズ三界、見於三界」(三界の三界を見るがのごとくならず)《教家ではこのように心得る》。

「如不シカジ三界、見於三界」(三界の三界を見るにしかじ)

《宗門ではこのように心得る》。



〔『抄』私訳〕

「涅槃生死是空花《涅槃と生死と是れ空花》。

涅槃といふは、阿耨多羅三藐三菩提アノクタラサンミャクサンボダイなり。仏祖および仏祖の弟子の所住これなり。生死ショウジは真実人体なり。この涅槃生死は、その法なりといへども、これ空花なり。空華の根茎枝葉コンキョウシヨウ、花果光色ケカコウシキ、ともに空花の花開なり。空花かならず空菓をむすぶ、空種をくだすなり。いま見聞する三界は、空花の五葉開なるゆゑに不如三界フニョサンガイ、見於三界ケンオサンガイなり。この諸法実相なり、この諸法華相なり。乃至不測フシキの諸法、ともに空花空果なり、梅柳桃李とひとしきなりと参学すべし」とある。


これは、「是空華」の言葉について、今の「空華」の巻でこれを引き出されるのである。悟る時は、「涅槃、生死」はどちらも「空華」のように妄(真実でない)であると一般には理解するであろう。しかし今は(宗意は)、「涅槃といふは、阿耨多羅三藐三菩提なり。仏祖および仏祖の弟子の所住これなり。生死は真実人体なり」とあり、文面から明らかである。


「涅槃生死」は捨てるべきものではないと聞こえる。「この涅槃生死は、その法なりといへども、これ空花なり」とは、「涅槃」も「生死」も、その「法なりといへども」、今は「空華」と扱うので、もとよりその関係は相違するものではなく、同じ法の道理であるから、「涅槃」と「生死」の「法」を、今は「空華なり」と談ずるのだと言うのである。


「空華の根茎枝葉、花果光色、ともに空花の花開なり」とは、「空花」の上で、「曾カツて生ぜず」とも「曾て滅せず」とも「青黄赤白」とも談ずる所を、「空華の根茎枝葉花果」とも「空花の花開」とも談ずるのである。「空花」は必ず「空種」を結ぶのである。この「空種」のありようは「空花」ほどの「空種」である。


「いま見聞する三界は、空花の五葉開なるゆゑに不如三界、見於三界なり」とは、この「見聞する三界」とは我々が見る三界ではなく、「空華」の上の「三界」である。この「三界は、空花の五葉開なる」とは、ただ「三界」を「三界」と見るほどの道理である。


だから、これが「諸法は実相なり」、これが「諸法は華相なり。乃至不測の諸法、ともに空・花・空・果なり」とあるのである。「不測の諸法」とは、とても数が多いことを言うのである。だから、「梅・柳・桃・李とひとしきなりと参学すべし」と言うのである。


春は「梅柳桃李」がいくらでもある。そのように、これも「不測の諸法」とは、春に「梅柳桃李」の花がいくらでもある一筋の道理を全て扱うために、このように言うのだと理解すべきである。



                         合掌


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