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真如に趣向するのもまた邪である『第十四古鏡』14-5-4b

〔『聞書』私訳〕

/「趣向真如亦是邪」とは、すでに「向背の各々にこれ真如なり」と言い、

また、「たれかしらん、この邪の亦是真如なることを」とあるから、

疑うべきではない。実相や真実の法味を服すれば唯仏与仏と言う、

これは実相の甘露である。


「煩悩」の方からは実相は毒であるが、坐仏すれば殺仏というほどのことである。

教でも、「真如、仏性には向背なし、向かおうとすれば邪なり」と談ずる。


ただ、こちらでは「真如」はそのまま「邪」であり、

「邪」はそのまま「真如」なのである。

すなわち、「向」も「真如」、「背」も「真如」なのである。


「世間の法を壊せずしてしかも実相の義を談ず」ということ(天台義)もある。

深いと学ぶのは浅く、浅いと学ぶのは深く聞こえる。

真言の教えでは、「山に高下あり、昇降すれども、過ぎぬれば里にいづ、

里に出れば本路に帰す」と言うのである。


「真如」の「向背」は、上にある「花亦不曾生」「花亦不曾滅」の意味合いである。


/「随順世縁無罣礙」と言う、

「随順世縁」と言えば、やはり世間に従うのかと思われるが、

そうではない。ただ「随順と随順と」であり、「随順と随順と世縁」する

と言うのである。

あるいは経典に、「仏が出世成道して衆生をして成仏せしむるにあらず、

ただ涅槃と生死の二見を離れしめんがためなり云々」と言う。


「随順と随順」とは、仏は仏に遮られるということである。道眼が通じず、

何に遮られることがあろうかという意味合いである。

「随順世縁無罣礙」とは、「罣礙無罣礙は、被眼礙に慣習すべきなり」とある。

この上どんな分からないことがあろうか。



〔『抄』私訳〕

「趣向真如亦是邪《真如に趣向するも亦た是れ邪なり》。

真如を背する、これ邪なり。真如に向する、これ邪なり。真如は向背なり、

向背の各々にこれ真如なり。たれかしらん、この邪の亦是真如なることを」

とある。


「真如を背する」というのも「邪」、「真如に向する」のも邪、

「真如は向背なり、向背の各々にこれ真如なり」と言うのである。

つまるところ、「真如」の一法が究尽する時、「向背」はみな「真如」

なのである。また、この「邪」は嫌がられる言葉に聞こえるが、

この「邪」はすなわち「真如」なのである。


「随順世縁無罣礙《世縁に随順して罣礙無し》。世縁と世縁と随順し、

随順と随順と世縁なり。これを無罣礙といふ。

罣礙不罣礙は、被眼礙に慣習すべきなり」とある。


「随順世縁」と言えば、人が世間に随うと理解するであろうところを、

この「随順世縁」とは「世縁と世縁と随順し、随順と随順と世縁」である

道理である。だから、「無罣礙」と言うのである。「罣礙」「無罣礙」とは、

「眼に罣礙せられて不見なり」ということがあり、そのように、

今の「無罣礙」も理解すべきである。


                         合掌


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