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凡人も聖人もすべての生きものは、みな我が家(空華)である『第十四空華』14-5-2b

 〔『聞書』私訳〕

/「凡聖含霊共我家《凡聖含霊、共に我が家》」とある。

これも、「凡聖」一如と言うのは教家の習わしで、「凡聖」に相違はないと言うのである。「凡夫」はいまだ惑を断ぜず、いまだ欲を離れていないので、生死去来を明らかにしていない。


聖位に分聖・極聖がある。分聖とは、一分の煩悩を断じ一分の理を顕すことで、分聖と言う。極聖とは、煩悩を断じ尽くし理を顕し尽くすことに名付ける。今の「凡聖含霊、共我家」の意味は教学とは異なる。すでに「共に我が家」であるから、非「凡」・非「聖」の意なのである。


「含霊」とは有情で、やはり凡夫である。「凡」と言い、「聖」と言い、「含霊」などと言い、別々であるが、尽十方界真実人体(尽十方世界は仏の真実人体である)と言うのである。


また、この巻の後で、霊訓と帰宗の問答の所で、「一翳イチエイ眼に在れば、空花乱墜クウゲランツイす」という言葉を入れ替えて、「空花眼に在れば、一翳乱墜す」と言い、「一眼空に在れば、衆翳乱墜す」などと言う。


また、「翳」も全機の現れ、「眼」も全機の現れ、「空」も全機の現れ、「花」も全機の現れとあるので、いずれにしても「凡聖」は別々ではない。決して世間の「凡聖」に習ってはいけないのである。


/「一念不生全体現」とある。

この「一念」・二念は、一法界・二法界ということ〔、一念が法界を尽くすという意味〕である。「全体現」を「念々一々」と言うのである。「念々」の数によって「念」が生じるように受け取られるのは心意識(客体へと向かう思慮分別の働き)に関わるのである。


三界一心である時は、「全体全現」であり、これが〔宗意の〕「一念不生」である。そもそも、「不生」と言うからには、「全体現」も無いからである。けれども、この「一念」がそのまま「全体」である。「一念」の「一」の字は、「一」に留まらない「一」であり、無量の「一」である。「念」もまたこれと同じである。


「不生」は、境(感覚の対象)が起これば生じ、境が留まれば「生じない」ということではない。境によって起こらない「一念」であるからである。



〔『抄』私訳〕

「凡聖含霊共我家《凡聖含霊、共に我が家》。凡夫賢聖なきにあらず、これによりて凡夫賢聖を謗ずることなかれ」とある。


「凡聖」とは「凡夫」と「賢聖」のことである。「含霊」とは流転する迷いの法を言う。「共我家」の「家」は、今の「空華」の道理をもって「家」と名付けるのである。この道理の上で、「凡夫賢聖」の言葉は「なきにあらず」である(凡夫賢聖が論じられているに過ぎない)。この「凡夫賢聖」は、また通常の「凡夫賢聖」ではないので、「謗ずることなかれ」と言うのである。


「一念不生全体現《一念不生にして全体現ず》。念々一々なり。これはかならず不生なり、これ全体全現なり。このゆゑに一念不生と道取す」とある。


「一念」を今は「念々一々」と逆に書かれている。これは一般にただ「一念」と言えば普通に聞こえるが、「念々一々」と言えば通常の言葉の意味と異なるのである。この「念々一々」の体が「不生」と言われるのである。それが「全体全現」ということである。



                         合掌


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