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光明が静かに照らし、すべてのガンジス河の砂に行き渡っている『第十四空華』14-5-1b

 〔『聞書』私訳〕

/「張拙秀才」「悟道」の段。

「光明寂照、河沙に遍し」。「遍」がそのまま「河沙」なのである。「現成」はそのまま「光明」である。決して「光明」を「現成」させるのではない。「寂照」不二とも説く。


/『華厳経』や『法華経』などの経文も、華厳宗と天台宗により解釈はそれぞれである。今、「張拙」の「頌」も経文の通り理解するに違いない。止をもって「寂」とし、「照」をもって「観」とする。また、「寂」にして「照」であり、「照」にして「寂」であるという義(天台義)もあるであろう。


けれども、こちらで言う義では(宗意では)「空より仮に入る」とも言わず、「仮より空に入る」とも言わず、「事に触れずして知る」のであり、「縁に対せずして照らす」のである。教では「寂」というのも理について言うが、そうではない。「この光明」は「僧堂・仏殿・廚庫・山門」だと言い、「この光明」は仏の一つの徳である。


また、人々においてそれぞれの分を作るのである。そのわけは、朝に生まれ夕に死ぬものがあり、百歳・千歳、あるいは八万劫の寿命のものもある。これらはただ寿命の長短に関わっており、果報の善悪が多くあり、みな輪廻の果報である。生死の上に置いて生死の長短を論じるようなことである。一塵というのも、仏法で言う塵土とはまた別である。


この「光明」も日月の光と比べることはできない。天衆の光はやはり日月の光にまさるのであり、まして仏光は言うに及ばない。日月と比べられるような仏の光は、ないようなものである。仏光は一塵中にもあり、内外の論には関わらないのである。


(宗意)の「光明」は「僧堂・仏殿」であり、「光明」が明らかだから「仏殿」を見るとは言えないのである。この上では、「遍く」「河沙」を「照」らすとばかり思ってはいけない。また、教の解釈でも「寂」であるからこそ「縁に対せず」(宗意で言う寂照)なのである。


そうであるから、「寂」にして「照」であること(天台の寂照止観)と何の相違があろうかと言うべきであるが、それも「寂」と「照」〔の彼此相対〕をあげ、この「照」はなお「寂」に引かれていると思われる。「光明」をそのまま「僧堂・仏殿」と説く宗意には及ばないのである。日の熱いことと、ものを照らすことと、二つあっても日が同じであるように、「寂照」もこれと同じである。



〔『抄』私訳〕

「張拙秀才は、石霜の俗弟子なり。悟道の頌をつくるにいはく、光明寂照遍河沙《光明寂照、河沙に遍し》。この光明、あらたに僧堂・仏殿・廚庫・山門を現成せり。遍河沙は光明現成なり、現成光明なり」とある。


「光明」は、一般には本体をおいてその作用と理解する。仏身より光を出して十方世界を照らすのを、衆生を救う「光明」などと名付けている。今は雲門の言葉で、「僧堂・仏殿・廚庫・山門」と言う。祖門の「光明」はこのように談ずるのである。


「遍河沙は光明現成なり、現成光明なり」とある。「遍河沙」の道理は、「光明現成なり、現成光明なり」と言われるのである。



                         合掌


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