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世尊は言う「みな空華(空として成立する真実のありよう)である」『第十四空華』14-2-2b

 〔『聞書』私訳〕

/「森羅をあつめていよゝかにせるなり。この道理を到来せしめて、春秋をはかりしるべし」とある。


/今の「結果」の「花」は世間の花でなく、これは「春秋をはかりしる」ことである。一切ここに具足しないということがない道理を、「いよゝかにせるなり」と言うのである。


「有時」の「花果」とは仏道の「花果」で、「花果」の所に「時節」があるのである。「時節」に「花果」が生じると言ってはならない。この「果」は必ずしも因果ではないので、「花」に「花」があると言うのである。


/「地水火風空樹みな花果あり。人樹に花あり」と言う、

この「人樹」は何ものかと思われる。教学では三草二木などということがあり、三乗二乗に喩えるので、「人樹」とどうして言わないことがあろうか。ただし、今三乗二乗に例えるというのではない。


/「枯木に花あり」とは、ニ乗の成道に当たるか。大方はまた、「枯木」はそのまま「花」が咲くと心得る、三界は唯心の道理があるから。諸花があれば「空華」がどうしてないだろうか、色即是空であるから。


この「枯木」も、日頃の我々の考えの「枯木」と思ってはならない。「空華」を見るのは眼のちょっとした陰りであり、「大悟底の人却って迷う時如何」というほどのことである。


〔このような仏の境地から見れば、〕「人」が「空華」を知ることはなく、「空華」に「人」は知られるのである。「空華」より見れば見る「人」がなく、間に「華」もないのである。


般若の空は実在するものを指して空と言う、これに対して人間・天人・外道の教えでは何もないことを空と言う。今は(宗意は)、そのまま「花」をもって「空」とするのである。


達磨宗の談に、同分相似妄見ということがあり、仏が出世し説法する時刻を、この時刻も妄見と言うが、この説は用いることはできない。



〔『抄』私訳〕

「この道理を到来せしめて、春秋をはかりしるべし。ただ春秋に華果あるにあらず、有時かならず花果あるなり。華果ともに時節を保任せり、時節ともに花果を保任せり」とある。


「春秋に華果あり」とのみ我々は知るが、今(宗意)は「花果」をもって「春秋」とするのである。だから、「花果」は「時節」を「保任」し、「時節」は「花果」を「保任」すると、打ち返して言われるのは、「時節」と「花果」はただ同じものであるからこのように言われるのである。


「このゆゑに百草みな華果あり、諸樹みな華果あり。金・銀・銅・鉄・珊瑚・頗梨樹等、みな華果あり。地水火風空樹みな花果あり。人樹に花あり、人花に花あり、枯木に花あり。かくのごとくあるなかに、世尊道、虚空華なり」とある。


「百草」「諸樹」「金・銀・銅・鉄・珊瑚・頗梨樹等」に、「みな華果あり」と言う、一般には、「金・銀・銅・鉄等」に「花」があるとは思えない。ただ、これは人間や天人の考えるところである。仏法では、必ずこれらに「華果」があるのである。


「人樹に花あり」とは「人花」があると言うのである。つまり、「空華」の時は、すべて仏々祖々、尽十方界、森羅万象は、「花」でない「時節」はないのである。


このように「花」の道理が無尽にある中で、今「世尊道、虚空華なり」ということを、言い出すためである。


                      合掌



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