〔『抄』私訳〕
「古先いはく、優鉢羅華火裏開。しかあれば、
優鉢羅華はかならず火裏に開敷するなり」とある。
これは文の通り理解すべきである。
「火裏をしらんとおもはば、優鉢羅華開敷のところなり。
人見天見を執して、火裏をならはざるべからず」とある。
これは、特に子細はなく、趣はない。「火裏」(火中)と「優鉢羅華」(蓮華)が、至って親しいのでこのように言われるのである。「火裏」を誰が知っているのかと思われる。「火裏」が「火裏」を知り、「優鉢羅」(蓮華)が「優鉢羅」を知る道理である。「火裏」に花が咲くという言葉を驚き怖れるのは、人の考えや天人の考えに執着するからである。この人や天人の考えに執着して、仏法の「火裏」を学ばないようなことがあってはならないというのである。
「疑著せんことは、水中に蓮花の生ぜるも疑著しつべし。枝條に諸華あるをも疑著しつべし。又疑著すべくは、器世間の安立も疑著しつべし。しかあれども疑著せず。仏祖にあらざれば華開世界起をしらず」とある。
文の通り心得るべきであり、特に子細はない。
「華開といふは、前三々後三々なり。この員数を具足せんために、森羅シンラをあつめていよゝかにせるなり」とある。
「前三々後三々」という言葉は、数量に関わらない言葉である。数量に関わらない「員数を具足」するとは、「森羅をあつめていよゝかにせるなり」ということである。数量に関わらない「員数」とは、「前三々後三々」のことを言うのである。「森羅」の諸法の姿も、「前三々後三々」の道理である。
合掌
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