〔『聞書』私訳〕
/「火裏」とは、「火焔裏に説法す」という「火裏」である。人間界の「火」でないから、「一星火」とは、星のようにただ一つの火であるという意である。「前三々後三々」とは、森羅万象を指すのであり、数ではないのである。
〔『抄』私訳〕
「たとへば、優鉢羅華の開敷の時処は、火裏・火時なるがごとし。
鑽火焔火みな優鉢羅華の開敷処なり、開敷時なり」とある。
「優鉢羅華の開敷の時処は、火裏・火時なるがごとし」と言った。火の中で「優鉢羅華」が生じるように心得て、どうしてそんなことがあるのかと思われる。今は、この「優鉢羅華」をそのまま「火」と説くのである。「華」と「火」が同じものであるから、「鑽火焔火みな優鉢羅華の開敷処なり、開敷時なり」と言うのである。
「もし優鉢羅華の時処にあらざれば、一星火の出生するなし、一星火の活計なきなり。しるべし、一星火に百千朶の優鉢羅花ありて、空に開敷し、地に開敷するなり。過去に開敷し、現在に開敷するなり」とある。
「優鉢羅華の時処」でない処では、「一星」もあるはずがなく、「一星火の活計なきなり」というのである。「一星火に百千朶の優鉢羅花ありて、空に開敷し、地に開敷するなり」とは、「百千朶」とは多くの枝という意味である。「一星火」に「優鉢羅花」の多く枝があるというのである。「空」「地」「過去」「現在」等に「開敷する」とは、この「一星火」の「百千朶」がこのように無尽に言われるのを、多くの枝と説くのである。
「火の現時現処を見聞するは、優鉢羅花を見聞するなり。
優鉢羅華の時処をすごさず見聞すべきなり」とある。
これは別に子細はない。「火の現時現処を見聞するは、優鉢羅花を見聞する」というのである。「火」と「優鉢羅花」は、二つの物ではないからこのように言われるのである。火焔と三世諸仏ほどのことである。
合掌
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