スキップしてメイン コンテンツに移動

空華の光明・色・形を尋ねるところは、この一華開五葉という参学なのである『第十四空華』14-1-2b

〔『聞書』私訳〕

/「結果任你結果なり(結果なんじが結果にまかすなり)、自然成をいふ。自然成といふは、修因感果なり。公界の因あり、公界の果あり」と言う、


「公界の果あり」とは、世間の法ではなく、仏の果について言うのである。因果を前後に置くことは外道の考えである。因中摂果(因の中に果を説くこと)も外道の考えである。従って、「修因感果(修行することで、相応の証果を感得すること)」があって果が待たれるということではなく、因果修感であり、教行証の三位が一つであるようなことである。


/「自は己なり、己は必定これ你なり」と言う、

「己」と「你」を指して「必定」と言うのである。ただ、「われにあらず、たれにあらず。このゆゑに不必なるを自といふなり」とある。「自然成」を心得るのにも二つの意味がある。一つには、花無くして「結果」することが「自然」であり、「一華五葉に開く」上は「自然」の「結果」とは言えない意味がある。二つには、花より前に「結果」することもあり、このような世界もないわけではないのである。


/「吾本此の土に来たる」と言う、

「此の土」は、必ずしも特定の場所を指すのではない。玄砂の言葉に「達磨東土に来たらず」と言った「土」である。仏はまた、身と「土」は不二であると言われているから、あちこちどこの所と「土」を定められない。「法を伝え迷情を救う」と言う、「法を伝える」人は、達磨であるか。「迷情」は慧可に当たるか。


今、法を伝えられる慧可が達磨に勝るから、「伝法」は「救迷情」、「救迷情」は「伝法」なのである。また、「汝亦如是」「吾亦如是」と心得るときは、達磨と慧可は、両人とも言えない。これを、「自は己なり、己は必定これ你なり」と言うのである。


「われにあらず、たれにあらず」と言うから、「不必なるを自といふ(不必なる自とは、われにあらず、たれにあらざる自己を言う)」とあるので、「自然」の「自」もこのように理解すればよいのである。「自然成といふは、修因感果なり」とあるので、いつになったら「自然」であるかと思われるけれど、「公界の因あり、公界の果あり」と言う。世間の法ではなく、仏果修行を因として到達される仏の位として言うのである。


/「無位の真人を使い得る」とは、証道人(道を明らめた人)のことであり、「不必」何とも断定し得ない様子の「自」である。



〔『抄』私訳〕

「光色の尋処は、この参学なるべきなり。結果任你結果なり、自然成をいふ。自然成といふは、修因感果なり。公界の因あり、公界の果あり。この公界の因果を修し、公界の因果を感ずるなり」とある。


この「光色の尋処」も「この参学なるべきなり」とは、「伝法救迷情」の言葉である。「結果任你結果なり」とは、一般には「花」が咲いて「果を結ぶ」というのであるが、これは、「花」は「花」に任せ、「結果」(果を結ぶ)は「結果」であるところを「自然成」と言うのである。南嶽のお言葉で、「妙法蓮華経 是大摩訶衍エン(大乗) 衆生如教行(衆生が教えの如くに修行すれば) 自然成仏道(自然に仏道が成ずる)」と言うのである。


これは、「如教行」を「自然成仏道」と指すのである。「自然」ということは、何ともなく物がふと出てきたのを「自然」と言うが(これは自然外道の考え)、今は(宗意は)、「修因感果(修行することで、相応の証果を感得すること)」の道理を「自然」と名付けるのである。


「因」というのも「公界の因」で、私の「因」ではない。「果」というのも「公界の果」で、私の「果」ではない。「公界の因果」に任せるとき、「吾にあらず、汝にあらぬ」道理があるのである。



「自は己なり、己は必定これ你なり、四大五蘊をいふ。使得無位真人のゆゑに、われにあらず、たれにあらず。このゆゑに不必なるを自といふなり。然は聴許なり。自然成すなはち華開結果の時節なり、伝法救迷の時節なり」とある。


世間でも、「自」とは思うけれど他は「汝」という道理がある。まして、仏法で、「われにあらず、なんじにあらざる道理」を本当に考えるべきである。東西南北もまたこのようなことである。「你」は「四大五蘊をいふ」、「使得無位真人」と言う。


これは、「無位の真人を使い得たり」とは、仏だ祖だなどと言うほどの意である。「不必なり」とは、「われにあらず、たれにあらざる」道理を「不必」何とも断定し得ない様子と言い、必定(必ずそのようになることが定まっていること)でない道理を言うのである。


「然」とは許す義、これは法の道理に叶うところを「聴許」と使うのである。「自然成」とは、「華開結果の時節」「伝法救迷の時節」を言うのである。



                      合掌



ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                       


     ↓               ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ   にほんブログ村PVアクセスランキング にほんブログ村

コメント

このブログの人気の投稿

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

坐禅は身心の今の様子のままにただ親しくいるだけである『第十一坐禅儀』11-1-1a

正法眼蔵第十一 坐禅儀 ザゼンギ 〔『正法眼蔵』原文〕   参禅は坐禅なり 。  坐禅は静処 ジョウショ よろし。坐蓐 ザニク あつくしくべし。 風烟 フウエン をいらしむる事なかれ、雨露 ウロ をもらしむることなかれ、 容身 ヨウシン の地を護持すべし。 かつて金剛 コンゴウ のうへに坐し、盤石 バンジャク のうへに坐する蹤跡 ショウセキ あり、 かれらみな草をあつくしきて坐せしなり。 坐処あきらかなるべし、昼夜くらからざれ。 冬暖夏涼 トウダンカリョウ をその術とせり。  諸縁を放捨し、万事 バンジ を休息すべし。 善也不思量 ゼンヤフシリョウ なり、悪也不思量なり。 心意識にあらず、念想観にあらず。 作仏 サブツ を図 ズ する事なかれ 、坐臥 ザガ を脱落すべし。  飲食 オンジキ を節量すべし、光陰を護惜 ゴシャク すべし。 頭燃 ズネン をはらふがごとく坐禅をこのむべし。 黄梅山 オウバイサン の五祖、ことなるいとなみなし、唯務 ユイム 坐禅のみなり。  坐禅のとき、袈裟 ケサ をかくべし、蒲団 フトン をしくべし。 蒲団は全跏 ゼンカ にしくにはあらず、跏趺 カフ のなかばよりはうしろにしくなり。 しかあれば、累足 ルイソク のしたは坐蓐 ザニク にあたれり、 脊骨 セキコツ のしたは蒲団にてあるなり。 これ仏々祖々の坐禅のとき坐する法なり 。 〔『正法眼蔵』私訳〕 正しい坐禅の仕方 (坐禅儀)   禅 (自己の真相:今の様子) に参ずる (親密にいる) のは、 公案を拈ることではなく 坐禅することである 。 (参禅は坐禅なり。)  坐禅は静かな処が適切である。 (坐禅は静処 ジョウショ よろし。) 座布団を厚く敷きなさい。 (坐蓐 ザニク あつくしくべし。) 風や霞が入らないようにし、雨や露が漏れてこないようにして、 身を容 イ れる場所を清潔に保ちなさい。 (風烟をいらしむる事なかれ、雨露をもらしむることなかれ、 容身の地を護持すべし。) かつて金剛座 (金剛石でできた坐処) の上に坐したり、 或いは大きい岩の上に坐した事跡があるが、 彼らはみな草を厚く敷いて坐ったのである。 (かつて金剛 コンゴウ のうへに坐し、盤石 バンジャク のうへに坐する蹤跡 ショウセキ あり、 かれらみな草をあつくしき...

あなたは坐禅をして何を図っているのか『第十二坐禅箴』12-2-1a

〔『正法眼蔵』原文〕    江西大寂 コウゼイダイジャク 禅師、ちなみに南嶽大慧禅師に参学するに、 密受心印よりこのかた、つねに坐禅す。  南嶽あるとき大寂のところにゆきてとふ、 「大徳、坐禅図箇什麼 ズコシモ 」。  この問、しづかに功夫参学すべし。 そのゆゑは、坐禅より向上にあるべき図 ヅ のあるか、坐禅より格外に図すべき道 ドウ のいまだしきか、すべて図すべからざるか。 当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著 モンヂャク するか。 審細に功夫すべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕 江西の大寂馬祖道一禅師が、縁あって南嶽大慧懐譲禅師に参じて学んだとき、仏心印 (仏の悟りの内容 ) を親しく厳しく正しく受けて (仏法の在り様、坐禅の在り様がツーツーになって) 以来、常に坐禅した。 (江西大寂禅師、ちなみに南嶽大慧禅師に参学するに、密受心印よりこのかた、つねに坐禅す。) 《この密は、隠密の密ではなく、親しく厳しく正しいという意味合いである。》 南嶽がある時馬祖の所に行って尋ねた、 「あなたは坐禅をして何を図っているのか」。 (南嶽あるとき大寂のところにゆきてとふ、「大徳、坐禅図箇什麼。」) この問いは、静かに工夫し深く学ばなければいけない。 (この問、しづかに功夫参究すべし。) と言うのは、坐禅よりもっと上にあるべき図 (様子) があるのか、坐禅より外に図るべき道 (在り様) がまだその時期でないのか、全く図ることがないのか。 (そのゆゑは、坐禅より向上にあるべき図のあるか、 坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか、すべて図すべからざるか。) 当に坐禅している時に、どんな図 (様子) が現れているのかと問うたのか、詳細に工夫すべきである。 (当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著するか。審細に功夫すべし。) 〔「坐禅図箇什麼」 (坐禅の図は箇の什麼なり) とは、箇の什麼 (この身心の今の様子) が坐禅の図 (様子) であるということである。〕 あなたは坐禅をして何を図っているのか『第十二坐禅箴』12-2-1b                         合掌 ンキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほん...