スキップしてメイン コンテンツに移動

『正法眼蔵第十四空華クウゲ』 (空として成立する真実の存在)14-1-1b

 〔『聞書』私訳〕

 /「空華」を説く時は、あるはずがないものであるのに、ちょっとしたかすみが眼にあるとき、間違った考えの度が過ぎて花が乱れ落ちるという感じがするが、そういうことではない。


地水火風空の五大元素は同じである。地の華・水の華があるのに、「空の華」はないと心得てはならない。また、衆生の考えの及ばないことが多いから、今、人間の眼に見えないから「空華」はないなどと言ってはならない。それぞれの考えがまちまちであることは、華に限らない。


天竺国に仏が出世されたのを、人間界に仏が出られたと衆生は思うけれど、仏はこれこそ仏の国と取られる。また、この国土を仏身と説き、三界を唯心と説くのは、衆生の考えの外であるけれど、唯心と聞くのを用いないわけではない。


地居天ジゴテン(地上に住んでいる神々)・空居天(空中に住んでいる神々)があり、この相違は非常に隔たっている。水中を行く龍魚がいて、陸地で遊ぶ獣がいる。この考えを互いに疑ってはいけない。衆生の法(現れている様子)は、みなそれぞれ別である。これによって「空華空として成立する真実の存在」も推察すべきである。


火中の花があり、今の「優鉢羅華」ウハツラゲがこれである。「優鉢羅華」とは、蓮華を言うことがあり、仏が出世し転輪聖王が出世するときに、「優鉢羅華」が咲くと言うのである。「火裏火時(火の中火の時)」に「優鉢羅華」が咲くので、火花と言うのである。蓮華を、そのまままた蓮華蔵世界(浄土の一つ)と説くことがある。「火裏」に生ずるので今の火世界と心得るべきである。そうであれば、世間の花も、みな「火裏」の花と心得るべきである。


一切の花は、「空華空として成立する真実の存在」でないものはない。「空華」と言うからであり、「色即是空・空即是色」と言うからである。この火中花ということは、教家では説かない。この宗門で言う「火裏」の花と説くときに、この花は普通の見方では見えないとして花ばかりを怪しむが、それは倉卒である。「火裏」も人間界の火と思ってはいけないのである。


/「一華開五葉」と言う、

この「五葉」は無量の「葉」を「開く」のである。『無量義経』では、「一法は無量義より生ず」と説く。『法華経』では、無量を一法と説くのである。「一華の重は五葉なり」という「重」は、「葉」と心得るのである。


/「自然成」という「自然」とは、以前なかったものが突然現れることを言うが、今はそのことではない。すでに「一華が開けて」「果を結ぶ」のを「自然」と言うから、長年にわたる修行を経て成仏すると言っても「自然」と心得るのである。外道の「八万劫のさきをしらずして、八万劫より現ずるを自然という」ようなことではないのである。


/「五葉」は、南嶽・青原の五家になったのをいうと会釈矛盾している諸説の間に相通じる教えを導き出すする義がある。このことは未来記(予言)に似ているが、そうではない。宗意は、ただ、「五葉」が「一華」である道理であるから、一仏法中に五家となるほどのことを指して心得ても、当たらないわけではない。


/「伝法救迷情」は「吾本来此土」であり、「伝法救迷情」は「汝にあらず誰にあらず」の義である。




〔『抄』私訳〕

「高祖道、一華開五葉、結果自然成。この華開の時節、および光明色相を参学すべし。一華の重は五葉なり、五葉の開は一華なり。一華の道理の通ずるところ、吾本来此土、伝法救迷情なり」とある。


これは初祖達磨大師のお言葉である。「この華開の時節」とは、「一華開五葉」の言葉を指す。この「一華」の上の「光明色相を参学すべし」というのである。「一華の重は五葉なり、五葉の開は一華なり」とある。一般的な数に関わらないことがはっきりしている。結局は、この「一華の道理」は、「五葉」とも「一華」とも言われるのである。


この「一華の道理」が、「吾本来此土、伝法救迷情」と言われるのである。「吾れ」は達磨、「此土」はシナ、「伝法」は般若多羅尊者に伝法されたこと、「救迷情」は衆生済度のことである。これが「一華の道理」と言われるのである。



                      合掌



ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                       


     ↓               ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ   にほんブログ村PVアクセスランキング にほんブログ村

コメント

このブログの人気の投稿

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村