〔『聞書』私訳〕
/「空華」を説く時は、あるはずがないものであるのに、ちょっとしたかすみが眼にあるとき、間違った考えの度が過ぎて花が乱れ落ちるという感じがするが、そういうことではない。
地水火風空の五大元素は同じである。地の華・水の華があるのに、「空の華」はないと心得てはならない。また、衆生の考えの及ばないことが多いから、今、人間の眼に見えないから「空華」はないなどと言ってはならない。それぞれの考えがまちまちであることは、華に限らない。
天竺国に仏が出世されたのを、人間界に仏が出られたと衆生は思うけれど、仏はこれこそ仏の国と取られる。また、この国土を仏身と説き、三界を唯心と説くのは、衆生の考えの外であるけれど、唯心と聞くのを用いないわけではない。
地居天ジゴテン(地上に住んでいる神々)・空居天(空中に住んでいる神々)があり、この相違は非常に隔たっている。水中を行く龍魚がいて、陸地で遊ぶ獣がいる。この考えを互いに疑ってはいけない。衆生の法(現れている様子)は、みなそれぞれ別である。これによって「空華(空として成立する真実の存在)」も推察すべきである。
火中の花があり、今の「優鉢羅華」ウハツラゲがこれである。「優鉢羅華」とは、蓮華を言うことがあり、仏が出世し転輪聖王が出世するときに、「優鉢羅華」が咲くと言うのである。「火裏火時(火の中火の時)」に「優鉢羅華」が咲くので、火花と言うのである。蓮華を、そのまままた蓮華蔵世界(浄土の一つ)と説くことがある。「火裏」に生ずるので今の火世界と心得るべきである。そうであれば、世間の花も、みな「火裏」の花と心得るべきである。
一切の花は、「空華(空として成立する真実の存在)」でないものはない。「空華」と言うからであり、「色即是空・空即是色」と言うからである。この火中花ということは、教家では説かない。この宗門で言う「火裏」の花と説くときに、この花は普通の見方では見えないとして花ばかりを怪しむが、それは倉卒である。「火裏」も人間界の火と思ってはいけないのである。
/「一華開五葉」と言う、
この「五葉」は無量の「葉」を「開く」のである。『無量義経』では、「一法は無量義より生ず」と説く。『法華経』では、無量を一法と説くのである。「一華の重は五葉なり」という「重」は、「葉」と心得るのである。
/「自然成」という「自然」とは、以前なかったものが突然現れることを言うが、今はそのことではない。すでに「一華が開けて」「果を結ぶ」のを「自然」と言うから、長年にわたる修行を経て成仏すると言っても「自然」と心得るのである。外道の「八万劫のさきをしらずして、八万劫より現ずるを自然という」ようなことではないのである。
/「五葉」は、南嶽・青原の五家になったのをいうと会釈(矛盾している諸説の間に相通じる教えを導き出す)する義がある。このことは未来記(予言)に似ているが、そうではない。宗意は、ただ、「五葉」が「一華」である道理であるから、一仏法中に五家となるほどのことを指して心得ても、当たらないわけではない。
/「伝法救迷情」は「吾本来此土」であり、「伝法救迷情」は「汝にあらず誰にあらず」の義である。
〔『抄』私訳〕
「高祖道、一華開五葉、結果自然成。この華開の時節、および光明色相を参学すべし。一華の重は五葉なり、五葉の開は一華なり。一華の道理の通ずるところ、吾本来此土、伝法救迷情なり」とある。
これは初祖達磨大師のお言葉である。「この華開の時節」とは、「一華開五葉」の言葉を指す。この「一華」の上の「光明色相を参学すべし」というのである。「一華の重は五葉なり、五葉の開は一華なり」とある。一般的な数に関わらないことがはっきりしている。結局は、この「一華の道理」は、「五葉」とも「一華」とも言われるのである。
この「一華の道理」が、「吾本来此土、伝法救迷情」と言われるのである。「吾れ」は達磨、「此土」はシナ、「伝法」は般若多羅尊者に伝法されたこと、「救迷情」は衆生済度のことである。これが「一華の道理」と言われるのである。
合掌
ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。

コメント
コメントを投稿