〔『聞書』私訳〕
/「万有非其功絶気。いはゆるは、万有はたとひ絶気なりとも、たとひ不絶気なりとも、不著なるべし。死屍たとひ死屍なりとも、万有に同参す」とは、「絶気」とは「死屍」を言うのである。それならば、「絶気」は「不著」であるけれど、すでに「死屍なりとも、万有に同参する行履あらんがごときは包含すべし」と許されるのである。「諸法実相」と説くのが「絶気者不著」に当たり、「包含万有」には「絶気」なしとは、実相の外に諸法なしということである。
/「一盲引一盲」と言う、
「大海」をすべてに置いて、「包含」すると言わない道理を説くのに、ただ「盲」は「盲」であるというのである。この理由を「一盲引一盲」と言うのである。
/「包含万有、包含于包含万有」とは、物を兼ね含むことではないから、兼ね含むことがそのまま兼ね含むことだと言うのである。
〔『抄』私訳〕
「曹山の道すらく万有非其功絶気。いはゆるは、万有はたとひ絶気なりとも、たとひ不絶気なりとも、不著なるべし。死屍たとひ死屍なりとも、万有に同参する行履あらんがごときは包含すべし、包含なるべし」とある。
この言葉は、「万有」は「非絶気」と言えば、「海」と「絶気」と別であるのを、「万有」を指して「非絶気」と言うと理解するであろうが、ただ「万有」の上では、「絶気」と言って「不絶気」と言っても、ただ「不著(とどめない)」の道理であると言うのである。「死屍たとひ死屍なりとも、万有に同参する行履あらんがごときは包含すべし、包含なるべし」と言うのである。
「万有なる前程後程、その功あり、これ絶気にあらず」とある。
これくらいの言葉は大切ではない。ただ、「万有なる」前後の「万有」である。「絶気」と言ってはならないというのである。
「いはゆる一盲引衆盲なり。一盲引衆盲の道理は、さらに一盲引一盲なり、衆盲引衆盲なり。衆盲引衆盲なるとき、包含万有、包含于包含万有なり。さらにいく大道にも万有にあらざる、いまだその功夫現成せず、海印三昧なり」とある。
これは、世間に一人の盲人が多くの盲人を引くという譬えがある。一人の盲人が多くの盲人を引けば、「衆盲」となると言うが、これはそういうことではない。一人の盲人は一人の盲人を引き、多くの盲人は多くの盲人を引くのである。仏は仏を引き、祖師は祖師を引き、あるいは包含は万有を引くと言うほどの道理である。
この道理は、「包含万有」が「包含万有」を「包含」するほどの道理に当たるのである。これがすなわち、「いく大道にも万有にあらざる、いまだその功夫現成せず、海印三昧なり」と言うのである。
合掌
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