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どうして息の絶えた者を海の中にとどめないのか『第十三海印三昧』13-13-1b

 〔『聞書』私訳〕

/「是什麼心行なるべし」とは、

これは「為什麼絶気者不著」の返事に似ているけれど、

これは返事だけに限らず、「包含万有」の道理を皆理解するのである。


/「従来疑著這漢」とは、

これは疑でなく、「疑著這漢に相見」と言うと理解すべきである。たとえば、「迷中又迷の漢(迷中でまた迷う人)」と言うようなことである。


/「死屍なりとも、不宿の直須万年なるべし」とは、三界は一心であるとか、解脱の三界であるとか言うようなことである。


/「這老僧一著子」と言う、

「不著」の言葉を「這老僧」と言うのであり、一仏と言うほどのことである。誰といって指すのではないのである。



〔『抄』私訳〕

「僧のいはく「為什麼絶気者不著」は、あやまりて疑著の面目なりといふとも、是什麼心行なるべし。従来疑著這漢なるときは、従来疑著這漢に相見するのみなり」とある。


「僧」の問いは、「包含万有」の徳を備えている「海」は、「絶気者不著」であると疑っているように思われるが、この「為什麼」の言葉は、例の不審ではない。なんとしても「不著」である道理を重ねて述べるのである。


だから、「あやまりて疑著の面目なりといふとも、是什麼心行なるべし」という今の言葉は疑に似ているけれど、どんなものも「不著」である道理が「是什麼心行」と言われるのである。「是什麼物什麼来」の言葉に当たり、「説似一物即不中」の道理である。


この巻の初めにある「流浪生死ルロウショウジを還源ゲンゲンせしめんと願求ガングする、是什麼心行シシモシンギョウにはあらず(生死に流浪するのを厭い源に還ろうと願い求める、そんな心のはたらきではないのである)」とは、嫌われる言葉であるが、ここの「是什麼心行」の言葉は、用いるべき言葉と理解すべきである。


また、「従来疑著這漢なるときは、従来疑著這漢に相見するのみなり」とは、「為什麼絶気者不著」の言葉が、「疑著」に似ているけれど「是什麼心行」である「疑著」であるから、「従来疑著這漢なるときは、従来疑著這漢に相見する」ほどの道理であると言うのである。


「什麼処在に為什麼絶気者不著なり。為什麼不宿死屍なり」とある。

我々がこの娑婆世界に居るのも、我見(実我があると執する妄見)はこのように思うけれど「什麼処在」の道理である。何故かと言うと、インド・シナに居るとも言い、或いは、仏性・法性等に「処在」するとか、仏見(仏の正しい知見)は測り難いのである。


ただ、我々が執着する前には、このように思われるけれど、みな定め難いことである。これがすなわち、「什麼処在」の道理である。このように、「為什麼絶気者不著」である道理である。


どうして「不著」と定め難いのか。ただ、「海」の道理が、このように「為什麼絶気者不著なり、為什麼不宿死屍なり」と言われるのである。


「這頭にすなはち既是包含万有、為什麼絶気者不著なり。しるべし、包含は著にあらず、包含は不宿なり」とある。


「包含万有」「為什麼絶気者不著」と言われる「包含」は、「著」でなく、「包含」は「不宿」の道理である。「海」の全面を「包含」と言い、「万有」と言う上は、まさに、「包含」も「著」でなく、「包含」も「不宿」なのである。


「万有たとひ死屍なりとも、不宿の直須万年なるべし」とある。

ここではまた、「万有たとひ死屍なりとも」と言う。「万有」は「海」を指し、「死屍」は「不宿」であると言う時に、「万有」と「死屍」は相即(融け合う)しないと思われるほどなので、また「万有たとひ死屍なりとも」と言うのである。


つまるところ、「万有」「死屍」「包含」「不宿」等は、ただ「海」の道理の上で説くところであるから、ある時は嫌われ、ある時は同じであると説かれるのであり、これがすなわち「海」の道理が、至って親密である時にこのように言われるのであり、相互に矛盾はないのである。嫌うのも用いるのも、ともに「海」上の功徳であるからである。


「直須万年」とはいつまでも「不宿」の道理であるところを言うのである。


「不著の這老僧一著子なるべし」とある。

仏だ祖だなどと言うほどの意味であり、一仏とも一祖とも言う意である。


                         合掌


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