〔『聞書』私訳〕
/「多福一叢竹」と言う、「多福」は所の名であり、
「一叢」という意味合いは、「衆法合成」の義である。
/「曹山」は「包含万有の道著、すなはちなほこれ万有なり」と言う、
これは「曹山」の言葉を褒めたのである。「万有」といっても「万有」でない意味合いもあるところを、言うべきことをよく言ったと褒めるのである。「疑著」とは、世間で言う不審の「疑」ではなく、仏道の上の言葉である。
この「疑著」は、「なにとしてか(なにとしても)」「大海」である、「なにとしてか(なにとしても)」「仏」であるというほどの事である。「疑著の面目」とは、僧の言う「為什麼絶気者不著」の言葉を指す。
今「是什麼心行なるべし」とあるので、「疑著」したことに当たるが、「為什麼絶気」というのも、「是什麼心行」というのも、ただ同じことと思われる。「如何なるか是れ仏」という問いに、「如何なるも是れ仏」と答えるほどのことである。「為什麼」と僧が言う時に、何かを疑うとは思えないから、この疑は疑ではないのである。
〔『抄』私訳〕
「たとへば、多福一叢竹ソウチクを道取するに、一茎両茎曲イッキョウリョウキョウキョクなり。三茎四茎斜なるも、万有を錯失せしむる行履なりとも、なにとしてかいまだいはざる、千曲万曲なりと。なにとしてかいはざる、千叢万叢なりと。一叢の竹、かくのごとくある道理、わすれざるべし。曹山の包含万有の道著、すなはちなほこれ万有なり」とある。
「一叢竹を道取するに、一茎両茎曲なり。三茎四茎斜なり」とは、「曲」がっているのも「斜」であるのも、「一茎両茎」あるいは「三茎四茎」も「一叢竹」の上の道理である。
「万有を錯失せしむる行履なり」とは、「一叢竹」にこのように多くの道理があり、そのように「万有」の上にこのような道理がある証拠として引き出されるのである。
「錯失」とはあやまりではなく、「将錯就錯」の「錯」である。また、「千曲万曲」「千叢万叢」という道理もあるはずなのに、どうしてこの道理を言わないのかといって、重ねてこの理を開山が述べられるのである。
「一叢の竹」の上にこのようないろいろな道があり、今の「不宿死屍」「包含万有」等の「海」の道理が無尽である潤色に引かれるのである。今の「曹山の包含万有」と「道著」する「道著」が、「すなわちなほこれ万有なり」と言うのである。この上は、「万有」と「道著」する師も「万有」であるのである。
合掌
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