スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

11月, 2025の投稿を表示しています

包含万有(森羅万象の全体)とは海のことを言うのである『第十三海印三昧』13-12-2a

  〔『正法眼蔵』原文〕 師いはく「包含万有」は、海を道著するなり。 宗旨の道得するところは、阿誰 オスイ なる一物の万有を包含するといはず、 包含、万有なり。 大海の万有を包含するといふにあらず。 包含万有を道著するは、大海なるのみなり。 なにものとしれるにあらざれども、しばらく万有なり。 仏面祖面と相見することも、しばらく万有を錯認するなり。 包含のときは、たとひ山なりとも高々峰頭立 カウカウホウトウリュウ のみにあらず。 たとひ水なりとも深々海底行のみにあらず。 收はかくのごとくなるべし、放はかくのごとくなるべし。 仏性海といひ、毘盧蔵海 ビルゾウカイ といふ、ただこれ万有なり。 海面みえざれども、游泳の行履 アンリ に疑著する事なし。 〔『正法眼蔵』私訳〕 師の曹山が言う「包含万有 (森羅万象の全体) 」とは、 海のことを言うのである。 〔師いはく「包含万有」は、海を道著するなり。〕 宗旨の言うところは、何か一物が森羅万象 (万有) を包含すると言わず、 包含することが森羅万象だというのである。 〔宗旨の道得するところは、阿誰なる一物の万有を包含するといはず、包含、万有なり。〕 大海が森羅万象を包含するというのではない。 〔大海の万有を包含するといふにあらず。〕 包含する森羅万象を言うのは、大海と言うよりほかにないのである。 〔包含万有を道著するは、大海なるのみなり。〕 何物か分からないけれども、しばらくこれを森羅万象というのである。 〔なにものとしれるにあらざれども、しばらく万有なり。〕 仏祖と相見することも、しばらく森羅万象を正しく仏祖だと合点することである。 〔仏面祖面と相見することも、しばらく万有を錯認するなり。〕 包含する時は、たとえ山であっても、高い山の頂きに立つだけではない。 〔包含のときは、たとひ山なりとも高々峰頭立のみにあらず。〕 たとえ水であっても、深い海底を行くだけではない。 〔たとひ水なりとも深々海底行のみにあらず。〕 すべてのものが一つのものに収まることはこのようなことであり、 一つのものがどこにでも現れることもこのようなことなのである。 〔收はかくのごとくなるべし、放はかくのごとくなるべし。〕 これを仏性の大海と言い、毘盧蔵海 ビルゾウカイ(大日如来の法性海) と言う、 いずれも森羅万象のことを言うのである。 〔仏...

包含万有(森羅万象の全体)とは海のことを言うのである『第十三海印三昧』13-12-2b

  〔『聞書』私訳〕 /「包含万有」と言っても、そのものを含むと言わず、ただ「明来」は「明」、「暗来」は「暗」であるというように理解するのである。 「師いはく包含万有は、海を道著するなり。宗旨の道得するところは、阿誰なる一物の万有を包含するといはず、包含、万有なり。大海の万有を包含するといふにあらず。包含万有を道著するは、大海なるのみなり」とある。 「包含万有は、海を道著するなり」とは、明らかで、疑うまでもない。この「包含万有」の言葉を人が理解する様子は、「海」の徳であらゆるものを袋に入れているように、あらゆるものが「大海」の中にあるように思っているが、決してそういうことではない。これはただ、「海」の道理が「包含万有」と言われるのである。 「但以衆法、合成此身 (ただ衆法を以て、此の身を合成す) 」というように、この「包含万有」も理解すべきである。その理由は、この「海」の道理が、「不宿」とも「死屍」とも、「明頭来」とも「暗頭来」と言われる所を、「包含万有」と言うのである。 ただ、これは「大海」の徳で、諸々のものを入れていると理解するのとは違う。今言う所 (宗意) は、「阿誰なる一物の万有を包含するといはず」、ただ「包含、万有なり」と言うのである。「大海の万有を包含する」とは言わないから、「包含万有を道著するは、大海なるのみなり」と言うのである。 /「たとひ山なりとも高々峰頭立のみにあらず」と言うのは、 「万有」を「包含」している意である。「山」である時は「山」が「万有」を「包含」し、「水」である時はまた、「水」が「万有」を「包含」するという意である。「不宿死屍」とも「包含」とも「絶気者不著」とも理解するのである。 /「毘盧蔵海」とは法身である。「仏性海」と「毘盧蔵海」は、ただ同じことである。「仏性」を説いた時は、内外中間でないと言い、悉有は「仏性」であると言った。その道理と同じである。今の「海」もまたこの通りである。だから、「内海」「外海」「八海」等ではないと言うのである。 /「ただこれ万有なり」と言う、 「包含」が「万有」であるから、ここでは、今は「包含」は用いないのである。 〔『抄』私訳〕 「なにものとしれるにあらざれども、しばらく万有なり。仏面祖面と相見することも、しばらく万有を錯認するなり。包含のときは、たとひ山なりとも高々峰頭立のみにあらず。たとひ...