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空華は空中に生じ、空中に滅する『第十四空華』14-4-4b

  〔『聞書』私訳〕 /「空中に生じ、空中に滅す」とは、「生」と「滅」についての考えが同じ種類であることを言い、 「生」と「滅」の 差別がないのである。 〔『抄』私訳〕 「空中に生じ、空中に滅す。翳中に生じ、翳中に滅す。華中に生じ、 花中に滅す。乃至諸余の時処もまたまたかくのごとし」とある。 「空中」に「生」「滅」する「生」「滅」とはどのような「生」「滅」か、よくよく考えるべきである。「翳中に生じ、翳中に滅す」る「生」「滅」とは、またどういうことか。 結局、「空中に生じ、空中に滅す る」道理である。全機 (全分のはたらき) の「生」、全機の「滅」であるから、このように言われるのである。 また、この「空華」「翳」「華」などに、必ず「諸余の時・ 処も」このような道理があるというのである。                       合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

仏道の翳人とは本覚人である『第十四空華』14-4-3a

  〔『正法眼蔵』原文〕  しるべし、仏道の翳人 エイジン といふは本覚人なり、 妙覚人なり、諸仏人なり、三界人なり、仏向上人なり。 おろかに翳を妄法 モウボウ なりとして、 このほかに真法ありと学することなかれ。 しかあらんは少量の見なり。 翳花もし妄法ならんは、これを妄法と邪執する能作所作、 みな妄法なるべし。 ともに妄法ならんがごときは、道理の成立 ジョウリュウ すべきなし。 成立する道理なくは、翳華の妄法なること、しかあるべからざるなり。 悟の翳なるには、悟の衆法、ともに翳荘厳の法なり。 迷の翳なるには、迷の衆法、ともに翳荘厳 エイショウゴン の法なり。 しばらく道取すべし、翳眼平等なれば空花平等なり、 翳眼無生なれば空華無生なり、諸法実相なれば翳花実相なり。 過現来を論ずべからず、初中後にかゝはれず。 生滅に罣礙 ケイゲ せざるゆゑに、よく生滅をして生滅せしむるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 知るべきである、仏道の 翳人 (諸法の実相を観る人) とは、 本覚人 (本来の悟っている人) であり、妙覚人 ( 仏の不可思議絶妙なる無上の悟りの人 ) であり、諸仏人 (諸仏の境涯の人) であり、三界人 (三界の中にあ仏) であり、仏向上人 (仏の境涯をも超える人) である。 〔しるべし、仏道の翳人といふは本覚人なり、妙覚人なり、諸仏人なり、三界人なり、仏向上人なり。〕   このことを知らずして愚かにも、この 翳 (かすみ) を真実でないものとして、 このほかに真実のものがあると学んではならない。 〔おろかに翳を妄法なりとして、このほかに真法ありと学することなかれ。〕   そのように学ぶのは狭い考え方である。 〔しかあらんは小量の見なり。〕 空華がもし真実でない ものであれば、この空華を真実でないものと誤ってとらわれる人もその考えも、みな真実でないものである。 〔翳花もし妄法ならんは、これを妄法と邪執する能作所作、みな妄法なるべし。〕 一切のものが真実でないものになるようであれば、 空華の道理が成立しようがない。 〔ともに妄法ならんがごときは、道理の成立すべきなし。〕 成立する道理がなければ、空華が真実でないものであることも、 あるはずがないのである。 〔成立する道理なくは、翳華の妄法なること、しかあるべからざるなり。〕 悟が 空華であれば 、悟の森...

仏道の翳人とは本覚人である『第十四空華』14-4-3b

  〔『聞書』私訳〕 /「翳眼平等なれば空花平等なり」とは、「翳眼」に「空華」を交えず、「空華」に「翳眼」を交えないことを言うのである。 /「器世間」 (有情を入れる器世界) のことは、凡夫の考えでは「器世間」の上に「諸法」があると見るが、仏の知見では「諸法」の上に「器世間」があるのである。「諸法」の中に仏法があり、正法があり、それが住法位 ( 不変の理法がありありと顕れている様子 ) なのであり、「器世間」に限らないのである。 /「翳眼無生なれば空華無生なり」とは、「翳眼」とは迷妄の法と思われるが、仏向上 (仏を超えて修行し続ける) の「無生なり」と言うのである。 〔『抄』私訳〕 「しるべし、仏道の翳人といふは本覚人なり、妙覚人なり、諸仏人なり、三界人なり、仏向上人なり。おろかに翳を妄法なりとして、このほかに真法ありと学することなかれ。しかあらんは少量の見なり」とある。 文に明らかである。吾我 (自我) の考えでない道理が明らかである。 「翳花もし妄法ならんは、これを妄法と邪執する能作所作、みな妄法なるべし。ともに妄法ならんがごときは、道理の成立すべきなし。成立する道理なくは、翳華の妄法なること、しかあるべからざるなり」とある。 文の通り明らかである。 「悟の翳なるには、悟の衆法、ともに翳荘厳の法なり。迷の翳なるには、迷の衆法、ともに翳荘厳の法なり」とある。 「翳人」とは「本覚人」「妙覚人」あるいは「諸仏人」などと言う。今はまた、「悟」をもって「翳」と取る時は、「悟の衆法」がみな「翳荘厳の法」となるのである。「迷の翳」もこれと同じである。 「しばらく道取すべし、翳眼平等なれば空花平等なり、翳眼無生なれば空華無生なり、諸法実相なれば翳花実相なり。過現来を論ずべからず、初中後にかゝはれず。生滅に罣礙せざるゆゑに、よく生滅をして生滅せしむるなり。」とある。 「翳」は眼の病とのみ心得るのに、「諸法」と「翳眼」を等しくして同じと解釈される。「過現来」「初中後」などに関わらない「翳眼」なので、「生滅に罣礙せず」と言のである。まさに、凡夫の生死にどうしてこの「空華」を等しくするのか。「空華」の上の「生滅」もまたないわけではないから、「生滅をして生滅せしむるなり」とあるのである。生死去来でないから生死去来であるというほどの言葉である、          ...

造るものとなり造られるものとなる地・水・火・風の四大元素もみな空華である『第十四空華』14-4-2a

  〔『正法眼蔵』原文〕  いま凡夫の学者、おほくは陽気のすめるところ、これ空ならんとおもひ、日月星辰のかかれるところを空ならんとおもへるによりて仮令 ケリョウ すらくは、空華といはんは、この清気のなかに、浮雲のごとくして、飛花 ヒケ の風にふかれて東西し、および昇降するがごとくなる彩色のいできたらんずるを、空花といはんずるとおもへり。 能造所造の四大、あはせて器世間の諸法、ならびに本覚本性等を空花といふとは、ことにしらざるなり。 又諸法によりて能造の四大等ありとしらず、諸法によりて器世間は住法位なりとしらず、器世間によりて諸法ありとばかり知見するなり。 眼翳によりて空花ありとのみ覚了して、空花によりて眼翳あらしむる道理を覚了せざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕  今、凡夫の仏道修行者は、多くは、陽気の澄んでいる所、すなわち青空を空であろうと思い、あるいは太陽や月や星々がかかっているところを空であろうと思っているから、仮に思うところは、空華とは、この清らかな空気の中で、浮雲のように、飛ぶ花が風に吹かれて東へ西へ動き、また上がったり下がったりするような彩りが出てくるのを、 空華と言うと思っている。 〔いま凡夫の学者、おほくは陽気のすめるところ、これ空ならんとおもひ、日月星辰のかかれるところを空ならんとおもへるによりて仮令すらくは、空華といはんは、この清気のなかに、浮雲のごとくして、飛花の風にふかれて東西し、および昇降するがごとくなる彩色のいできたらんずるを、空花といはんずるとおもへり。〕 造るものとなり造られるものとなる地・水・火・風の四大元素も、 加えて国土世間のすべてのもの、並びに本覚・本性などもみな空華 ( 空として成立する真実の存在) であるということは、凡夫はとりわけ知らないのである。 〔能造所造の四大、あはせて器世間の諸法、ならびに本覚本性等を空花といふとは、 ことにしらざるなり。〕 また、すべてのものによって万物を造る四大元素などがあると知らず、 すべてのものによって国土世間がその法位 ( そのままのありよう) に安住しているとも知らず、国土世間によってすべてのものがあるとばかり考えるのである。 〔又諸法によりて能造の四大等ありとしらず、諸法によりて器世間は住法位なりとしらず、器世間によりて諸法ありとばかり知見するなり。〕 眼 翳 によって空花 (...