〔『聞書』私訳〕
/「還是不足」とは、世間で言っているように、物が足らないことを「不足」と言うのではない。たとえば、会・不会を共に仏法の上では同じ言葉として用いるように、「遍身是手眼」を「不足」と使うのである。従って、「不足」というのは足らないということではない。「通身是手眼」をまた「不足」と使うのである。
これも満足と言いたいところであるが、「不足」と言ってはならないから「不足」と言っても驚くべきではない。上に進むと言っても前に進むのではないから、「不足」と使うのである。「相見」と言っても両人が「相見」するのではなく、これほどの「不足」である。「通身」「遍身」というほどであれば、「手眼」とばかりことさらに言うべきではないから、「不足」と言うのだと理解すべきである。
但し、この「手眼」は、また無際限の「手眼」である時は「不足」とも満足とも言い難い。「滅」の「手眼」、「滅」の行程で、「手眼」もまたこのようなのである。
〔『抄』私訳〕
「すでに前法の滅なり、後法の滅なり。法の前念なり、法の後念なり。為法の前後法なり、為法の前後念なり。不相待は為法なり、不相対は法為なり。不相対ならしめ、不相待ならしむるは八九成の道得なり」とある。
これは、法の上の「前後」、法の上の「前念」「後念」である。「為法の前後法、為法の前後念」とは、「為」の言葉が変わっただけであり、ただ同じことを言っているのである。
「不相待は為法なり、不相対は法為なり」とは、「不相待」と「不相対」はいささか違うようであるが、意味は同じである。法の道理に(宗意からは)、「相待」も「相対」もあるはずはなく、この道理を「為法」「法為」と言われるのである。
「不相対ならしめ、不相待ならしむるは八九成の道得なり」とは、「不相待」の言葉も「不相対」の言葉も共に満足の「道得」であるという意味である。
従って「八九成の道得」は、十成に及ばないからといって、不足であると言うのではなく、満足の言葉なのである。
「滅の四大五蘊を手眼とせる、拈あり收あり。滅の四大五蘊を行程とせる、進歩あり相見あり」とある。
「起」には「四大五蘊」ということもある。「滅の四大五蘊」という言い方が理解できない。しかし、宗意の一法究尽の上では、どんな言葉も洩れるものはない。つまるところ、「滅」の上で「四大五蘊」を取り上げ、手放し、進歩させることなどがあってもよいのである。
また、「相見あり」と言うが、この「相見」とはどういうことであろうか。これは「滅」が「滅」に「相見」するのである。
「このとき、通身是手眼、還是不足なり。遍身是手眼、還是不足なり」とある。
この言葉は、実際はどうして「不足」があろうかということであるが、起滅の徳を賞翫しようとしてこのように言うのである。
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