〔『聞書』私訳〕
/「いはゆる海印三昧の時節」という段、
「合成此身」とは、「三界唯一心」の心と「此身」の身は同じであると心得るべきである。
/「一合相」とは、教学で一般に言うには五蘊等が一つに合したのを人身と指すが、これはそういうことではない。「但以衆法、合成此身」のことを「一合相」と言うのは、必ずしも身とのみ心得るべきではなく、「此身」は「衆法」の身である。
この壊身(五蘊化和合の人身)を指して「一合相」と言うからといって、これを嫌って言わないわけではない。「此身」とは、尽十方界の真実人体と言う時は「此身」一つを取り出すのではなく、それは「衆法合成」の「此身」なのである。
/「一合相」は「此身」であり、「此身」を「一合相」とするのではないという意味合いは「此法起時、不言我起」と言うようなことであり、このように心得るべきである。或いはまた、三界は一心であり、一心は三界ではない、と言うようなことである。
〔『抄』私訳〕
仏の言葉の「但以衆法、合成此身」を一般に人が心得るのは、「衆法を以て、此身を合成す」とは、地水火風空等の諸々の法でこの身を合成すると心得るであろうが、そうではない。今「此身」と言われる「身」は尽十方界の全身である。
この、「合成此身」とは諸々の物を取り集めて作ったというものではなく、尽十方界の全身の上でこれに漏れたものは何一つなく、初めて強引に集めたものではない。この道理を「合成此身」と言うのである。今の「海印三昧」の言葉が、そのまま「但以衆法の道得」であると言われるのである。
また、「衆法合成せる一合相、すなはち此身なり。此身を一合相とせるにあらず、衆法合成なり」とは、ただ同じ事を繰り返したのである。これは「此身」の道理が欠けた所がなく、円満である道理を述べられたのである。
「合成此身を此身と道得せるなり」とは、上で「衆法合成此身」と言えばやはり物が集まったように思われるが、今は「合成此身」とあり、「此身」が「合成」であるということを知ったということである。「衆法」が「此身」である道理が明らかなのである。
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