スキップしてメイン コンテンツに移動

森羅万象はあるがまま仏性の大海である『第十三海印三昧』13-11-1b

〔『聞書』私訳〕

/「曹山元証大師」の段。

「因僧問、承教有言、大海不宿死屍、如何是海」《承るに教に言へること有り、大海死屍ダイカイシシを宿シュクせずと。如何なるか是れ海》とある。

/「凡聖の教にあらず」との文。

凡はまさに捨てるべきであり、聖は取るべきと思われるが、

凡に対する聖は嫌うところである。


/「附仏法の小教にあらず」と言う、

外道(道を外れた教え)を小と取るのである。「附仏法」と言う時は大乗・小乗ともにあるが、必ずしも「小教」と低くすることはできない。小乗もまとめて大法と言うように「附仏法」の言葉があるが、「小教」と言う時は必ず外道を指すのである。


四十二章経(最初の漢訳仏典)は、小乗経(小乗の経典)であるが、これを伝えることを大法東漸仏法がインドから漸次東方に伝わったことなどということもあるのである。「附仏法」と言えば、外道(道から外れた教え)であるのに「仏法」に従っている教えであるかと思われるが、そうではない。外道と言う時は、まったく「仏法」には関わらないのである。そうではあるが、「仏法」の言葉を借りて邪義を説くのを、「附仏法」の外道と名付ける時に、特に嫌うべき外道である。ただ己が邪見であるだけでなく、「仏法」をそこなうからである。


/「大海不宿死屍」とは、「死屍シシ」と言っても世間の「屍シカバネ」と心得てはならない。ただ、「不宿」と心得るのである。人々が見ないものであると言う上は、決して「屍」とばかり言うのではないのである。


/「三界唯一心、心外無別法」と言う、

それならば、一心には三界は「不宿」と言うようなことである。


/「海」も世間の海水だけに「不宿」であり、浜や岸に打ち上げられる時は、「宿死屍」であるか。「仏法」では何れの所も「海」であるから、「包含」と言うこともできるのである。


/「学人のうたがふところにあらず」と言うのは、

この「学人」は今の宗門の仏道を学び修行する者を指す。「内海・外海・八海等」のことを、もともと疑うも疑わないもないからである。


/「如何なるか是れ海」と問うのは、世間の海を問わず、「仏法」の「海」を問うのである。例えば、「如何なるか是れ眼ガンゼイ」とも頂寧チョウネイ(頭頂)とも鼻孔とも言うのを指すのである。人の顔ごとにある、眼・鼻などを、改めて「如何なるか」と問うのではないと思い定めなければならない。


/「包含万有ホウガンバンウ」と言うのは、

一切「海」でない所がない道理を言うのである。「死屍」を隔てるなら、〔能所相対が生じるから〕「大海」の義はない。このような時は〔「不宿死屍」に対して〕「宿死屍」と言う〔が、これは仏法ではない。〕多くのものを兼ね含んでいると言うのではなく、ただ「包含」しているだけと心得るのである。


「万有」と言っても袋に一切の物を入れるように思ってはならない。「大海」は広いから一切を含むと言うのではなく、尽十方界を「大海」と言うのである。


「如何なるか是れ海」と言った時から、すでに世間の海のことではないと思われる。また、一切の諸法が「仏法」であるなら、「不宿死屍」と言う様子はないのである。


/「為什麼不宿死屍イシモフシュクシシ」《什麼ナニと為てか死屍を宿せざる》とは、「包含万有」であるなら、「不宿」のわけがないという意味合いである。


/「絶気者不著ゼッキシャフヂャク」と言う、

「大海」の道理には〔、すなわちすべてのものが仏法である時、〕「絶気」はない。「大海不宿死屍」と言う時に「絶気」のものはないから、「不著」と言うのである。「絶気」は「死屍」に当たり、「不著」は「不宿」に当たるのである。


/「既是包含万有、為什麼絶気者不著」《既に是れ包含万有、什麼と為てか絶気の者不著なる》と言う、

この言葉の通り理解すべきである。


/「万有非其功絶気」《万有、その功、絶気に非ず》と言う、

「其功」とあるのは「万有」のことであるから、「絶気に非ず」であり、「包含」されるものは「絶気に非ず」であり、本の生死輪転の法のままという義はあるはずがないのである。



〔『抄』私訳〕

「大海不宿死屍」とは、「大海」の一つのはたらきで、まったく「不宿死屍(屍を宿めず)」である。これは、今言うこととは違うのである。何故か、今の「大海不宿死屍」は、まったく「大海」以外に「死屍」は寄り付かず、すべて「海」である道理を「不宿死屍」と言うのである。「死屍」を置いて(対象化して)「不宿」と言うのではないから、今の僧の問いも理解できないのである。「大海不宿死屍」とは、どのような道理かと問うべきなのに、「如何なるか是れ海」と問うのは、理解できない。ただ、今の「海」の道理をこのように問答されているのである。


今の「海」は「内海・外海・八海等にあらず」とあり、疑うべきではない。「海にあらざるを海と認ずる」とは、凡夫が「海」と理解しても、「仏法」では全世界がみな「海」であるから、「海にあらざるを海と認ずる」と解釈されるのである。この上はまた、仏の「海なるを海と認ずる」である。


「たとひ海と強為すとも、大海といふべからざるなり」とは、これは我々が海といつも思っている妄海を嫌われるのである。この海を「海と強為すとも、大海といふべからざるなり」、それは小海であるというのである。


                           合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                       


     ↓               ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ   にほんブログ村PVアクセスランキング にほんブログ村

コメント

このブログの人気の投稿

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村