〔『聞書』私訳〕
/「曹山元証大師」の段。
「因僧問、承教有言、大海不宿死屍、如何是海」《承るに教に言へること有り、大海死屍ダイカイシシを宿シュクせずと。如何なるか是れ海》とある。
/「凡聖の教にあらず」との文。
凡はまさに捨てるべきであり、聖は取るべきと思われるが、
凡に対する聖は嫌うところである。
/「附仏法の小教にあらず」と言う、
外道(道を外れた教え)を小と取るのである。「附仏法」と言う時は大乗・小乗ともにあるが、必ずしも「小教」と低くすることはできない。小乗もまとめて大法と言うように「附仏法」の言葉があるが、「小教」と言う時は必ず外道を指すのである。
四十二章経(最初の漢訳仏典)は、小乗経(小乗の経典)であるが、これを伝えることを大法東漸(仏法がインドから漸次東方に伝わったこと)などということもあるのである。「附仏法」と言えば、外道(道から外れた教え)であるのに「仏法」に従っている教えであるかと思われるが、そうではない。外道と言う時は、まったく「仏法」には関わらないのである。そうではあるが、「仏法」の言葉を借りて邪義を説くのを、「附仏法」の外道と名付ける時に、特に嫌うべき外道である。ただ己が邪見であるだけでなく、「仏法」をそこなうからである。
/「大海不宿死屍」とは、「死屍シシ」と言っても世間の「屍シカバネ」と心得てはならない。ただ、「不宿」と心得るのである。人々が見ないものであると言う上は、決して「屍」とばかり言うのではないのである。
/「三界唯一心、心外無別法」と言う、
それならば、一心には三界は「不宿」と言うようなことである。
/「海」も世間の海水だけに「不宿」であり、浜や岸に打ち上げられる時は、「宿死屍」であるか。「仏法」では何れの所も「海」であるから、「包含」と言うこともできるのである。
/「学人のうたがふところにあらず」と言うのは、
この「学人」は今の宗門の仏道を学び修行する者を指す。「内海・外海・八海等」のことを、もともと疑うも疑わないもないからである。
/「如何なるか是れ海」と問うのは、世間の海を問わず、「仏法」の「海」を問うのである。例えば、「如何なるか是れ眼睛ガンゼイ」とも頂寧チョウネイ(頭頂)とも鼻孔とも言うのを指すのである。人の顔ごとにある、眼・鼻などを、改めて「如何なるか」と問うのではないと思い定めなければならない。
/「包含万有ホウガンバンウ」と言うのは、
一切「海」でない所がない道理を言うのである。「死屍」を隔てるなら、〔能所相対が生じるから〕「大海」の義はない。このような時は〔「不宿死屍」に対して〕「宿死屍」と言う〔が、これは仏法ではない。〕多くのものを兼ね含んでいると言うのではなく、ただ「包含」しているだけと心得るのである。
「万有」と言っても袋に一切の物を入れるように思ってはならない。「大海」は広いから一切を含むと言うのではなく、尽十方界を「大海」と言うのである。
「如何なるか是れ海」と言った時から、すでに世間の海のことではないと思われる。また、一切の諸法が「仏法」であるなら、「不宿死屍」と言う様子はないのである。
/「為什麼不宿死屍イシモフシュクシシ」《什麼ナニと為シてか死屍を宿せざる》とは、「包含万有」であるなら、「不宿」のわけがないという意味合いである。
/「絶気者不著ゼッキシャフヂャク」と言う、
「大海」の道理には〔、すなわちすべてのものが仏法である時、〕「絶気」はない。「大海不宿死屍」と言う時に「絶気」のものはないから、「不著」と言うのである。「絶気」は「死屍」に当たり、「不著」は「不宿」に当たるのである。
/「既是包含万有、為什麼絶気者不著」《既に是れ包含万有、什麼と為てか絶気の者不著なる》と言う、
この言葉の通り理解すべきである。
/「万有非其功絶気」《万有、その功、絶気に非ず》と言う、
「其功」とあるのは「万有」のことであるから、「絶気に非ず」であり、「包含」されるものは「絶気に非ず」であり、本の生死輪転の法のままという義はあるはずがないのである。
〔『抄』私訳〕
「大海不宿死屍」とは、「大海」の一つのはたらきで、まったく「不宿死屍(屍を宿めず)」である。これは、今言うこととは違うのである。何故か、今の「大海不宿死屍」は、まったく「大海」以外に「死屍」は寄り付かず、すべて「海」である道理を「不宿死屍」と言うのである。「死屍」を置いて(対象化して)「不宿」と言うのではないから、今の僧の問いも理解できないのである。「大海不宿死屍」とは、どのような道理かと問うべきなのに、「如何なるか是れ海」と問うのは、理解できない。ただ、今の「海」の道理をこのように問答されているのである。
今の「海」は「内海・外海・八海等にあらず」とあり、疑うべきではない。「海にあらざるを海と認ずる」とは、凡夫が「海」と理解しても、「仏法」では全世界がみな「海」であるから、「海にあらざるを海と認ずる」と解釈されるのである。この上はまた、仏の「海なるを海と認ずる」である。
「たとひ海と強為すとも、大海といふべからざるなり」とは、これは我々が海といつも思っている妄海を嫌われるのである。この海を「海と強為すとも、大海といふべからざるなり」、それは小海であるというのである。
合掌
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