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屍とは、まったく誰もまだ見たことがないものである『第十三海印三昧』13-12-1a

  〔『正法眼蔵』原文〕  「不宿死屍」といふは、不宿は明頭来明頭打、暗頭来暗頭打なるべし。 死屍は死灰なり、幾度逢春不変心《幾度か春に逢ふも心を変ぜず》なり。 死屍といふは、すべて人々いまだみざるものなり。 このゆゑにしらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕  「死屍を宿 トド めず」という「宿めず」とは、 明が来れば明で対処し、 暗が来れば暗で対処するということである。 〔「不宿死屍」といふは、不宿は明頭来明頭打、暗頭来暗頭打なるべし。〕 屍 シカバネ とは冷たくなった灰であり、何度春に逢っても心の起こりようがなく、春に同化してしまうものである。 〔死屍は死灰なり、幾度逢春不変心《幾度か春に逢ふも心を変ぜず》なり。〕 屍とは、まったく誰もまだ見たことがないものである。 〔死屍といふは、すべて人々いまだみざるものなり。〕 〔自分は屍だから、自分は仏性の大海だから、 自分は自分を見ることができないのである。〕 だから、知らないのである。 〔このゆゑにしらざるなり。〕 屍とは、まったく誰もまだ見たことがないものである『第十三海印三昧』13-12-1b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

屍とは、まったく誰もまだ見たことがないものである『第十三海印三昧』13-12-1b

〔『聞書』私訳〕 /「明頭来明頭打」と言うのは、 「大海」の面を「不宿」と説く意味である。物を置いて「不宿」と説くのではない。この義を説くのに「明頭来明頭打」と言うのは、ただ「大海」は「不宿死屍」の道理だけがある理由 ワケ である。 /「不宿死屍」と「明頭来」の言葉を同じ意味に理解するのは、この「海」は水だけでないから、陸地までも「不宿死屍」であり、「海」と言えば「不宿死屍」なのである。 「明頭来」も、何かについて「明来」と言わず、明暗を並べたのではなく、ただ「明頭来明頭打」であるから、このように言うのである。「海」と言えば、必ず「不宿死屍」である。「宿」と言われるものは、染汚の法となるから、「不宿」と言うのである。 今、「明頭来明頭打」と言って、ものが二つ並ばないことを譬えとして言う時に、「不宿」の言葉に引き乗せられるのである。 「大海」を「包含万有」と言っても、「死屍」を留めず、「大海」の並びとして「包含」をそのまま「包含」すると言うのである。他の物を「包含」するのではない。 /「幾度か春に逢ふも心を変ぜず」とは、「心を変じない」ほどであれば「春に逢」わないのである。例えば、草木が「春に逢」っても不生であるようなことである。「死屍」は人々が見ないというも、「春」に「逢わない」というほどのことである。 /世間の言葉に「師を見ず」ということがある。また、「師を見んと欲すれば、弟子を見るべし」とも言う。師の説を確かに相伝しなければ「師を見ず」、また弟子とも言えないのである。 そもそも、「師を見ず」というのにも二つの意味がある。皮肉骨髄 (奥義) をよく相伝したら、師弟は別とならないから「見ず」の義もある。「春」は「死屍」を「見ず」であり、朽ちた木になってしまえば「春」に「逢わず」なのである。 /「人々いまだみざるものなり」と言う、「大海」がそのまま「不宿死屍」であるから、「死屍」は「人々見ず」と言うのである。ただ、「大海」は「万有包含」である。この人とは、悟道の人とか迷った人とかを指さないのである。 〔『抄』私訳〕 「不宿死屍といふは、不宿は明頭来明頭打、暗頭来暗頭打なるべし。死屍は死灰なり、幾度逢春不変心《幾度か春に逢ふも心を変ぜず》なり。死屍といふは、すべて人々いまだみざるものなり。このゆゑにしらざるなり」とある。 「不宿」の道理を説かれるのに、「明頭来明頭打、暗...

仏性の大海はすべてのものが合わさって成っているものである『第十三海印三昧』13-11-2a

〔『正法眼蔵』原文〕    この曹山は、雲居 ウンゴ の兄弟 ヒンデイ なり。 洞山の宗旨 シュウシ 、このところに正的 ショウテキ なり。 いま「承教有言 ショウキョウウゴン 」といふは、仏祖の正教 ショウキョウ なり。 凡聖 ボンショウ の教にあらず、附仏法の小教にあらず。  「大海不宿死屍 ダイカイフシュクシシ 」。 いはゆる大海は、内海・外海 ゲカイ 等にあらず、八海等にはあらざるべし。 これらは学人のうたがふところにあらず。 海にあらざるを海と認ずるのみにあらず、海なるを海と認ずるなり。 たとひ海と強為 ゴウイ すとも、大海といふべからざるなり。 大海はかならずしも八功徳水の重淵 チョウエン にあらず、大海はかならずしも鹹水 カンスイ 等の九淵 キュウエン にあらず。 衆法は合成 ゴウジョウ なるべし。 大海かならずしも深水 ジンスイ のみにてあらんや。 このゆゑに、「いかなるか海」と問著 モンヂャク するは、大海のいまだ人天 ニンデン にしられざるゆゑに、大海を道著 ドウヂャク するなり。 これを問著せん人は、海執を動著せんとするなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 この曹山は、雲居 ウンゴ の兄弟弟子である。 師の洞山 トウザン の宗旨は、この海印三昧の公案に正しく現れている。 〔この曹山は、雲居の兄弟なり。洞山の宗旨、このところに正的なり。〕 今「承るに教に言へる事有り」というのは、 仏祖の正しい教えのことである。 〔いま「承教有言」といふは、仏祖の正教なり。〕 凡夫や聖人の教えではなく、 仏法に似せている外道の教えではない。   〔凡聖の教にあらず、附仏法の小教にあらず。〕 「大海は死屍を宿めず」とこの僧が言った大海とは、 須弥山 シュミセン(宇宙の中心にある山) の内海や外海のことではなく、 また八つの海のことではない。 〔「大海不宿死屍」。いはゆる大海は、内海・外海等にあらず、八海等にはあらざるべし。〕 これらの海のことを疑ってこの僧が尋ねているのではない。 〔これらは学人のうたがふところにあらず。〕 この僧は、仏性の大海でないもの (内海・外海、八海) を仏性の大海と認めるだけでなく、仏性の大海を大海と認めるのである。 〔海にあらざるを海と認ずるのみにあらず、海なるを海と認ずるなり。〕 かりに内海・外海・八海等...

仏性の大海はすべてのものが合わさって成っているものである『第十三海印三昧』13-11-2b

  〔『聞書』私訳〕 /「海にあらざるを海と認ずるのみにあらず、海なるを海と認ずるなり」とは、「仏法」では、世間の海でないものを「海と認ずる」のである。 「強為」の海は世間の海で、「大海」とは「仏海」を言い、「衆法合成 (衆法により合成する) 」は「大海」なのである。 /『心不可得』の巻で、「不可得裏に過去現在未来の窟 籠 をエン来せり」と言っているように、今はまた、「不宿」の上で「万有」を「エン来せり」と言うようなことである。 「大海」は「衆法合成」であり、「包含万有」であり、「不宿」であるから、「エン来せり」と言うのである。 〔『抄』私訳〕 「大海はかならずしも八功徳水の重淵 チョウエン にあらず、大海はかならずしも鹹水 カンスイ 等の九淵 キュウエン にあらず。衆法は合成 ゴウジョウ なるべし。大海かならずしも深水 ジンスイ のみにてあらんや。このゆゑに、「いかなるか海」と問著 モンヂャク するは、大海のいまだ人天 ニンデン にしられざるゆゑに、大海を道著 ドウヂャク するなり。これを問著せん人は、海執を動著せんとするなり」とある。 「いかなるか海と問著するは」、尽十方界は海という意味合いである。 「大海のいまだ人天にしられざる」とは、今の向上の「大海」を「人天」が「いまだ」知らない道を「道著する」というのである。 「これを問著せん人は、海執を動著せん」とは、このように「大海を道著する」のを聞いて、日頃思っている「海執を動著せん」と言うのである。                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村