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本覚を将来に求めるものではない 『第十三海印三昧』13-3b

 〔『聞書』私訳〕

/「始覚・本覚」は、たとえ「始覚」であっても「本覚」であっても、

「前途」の位を置き「拈来」するのは「仏祖」の「道」には不足である。

だから、これを低くして「始覚・本覚等の諸覚を仏祖とせるにはあらざるなり」と言い、「仏祖」の方からは、「始覚・本覚」の道理を明らかにすれば「仏祖の功徳なり」というのである。


/教で、「始覚は本覚に冥す」と言う。また、「始覚本覚不二」と言う。

この宗門では、釈迦牟尼仏が三十歳でブッダガヤで成道された時、「大地有情同時成道」と仰られたから、「始覚」と取ることはできず、今また成道されたから「本覚」と言うこともできない。


「始覚・本覚」を共に超越した成道と言うのである。このように言えばまた、そうであるからこそ冥すのだと言うと心得る人々もあろう。

しかし、冥と言えば、やはり「本覚・始覚」を共に立てて冥と言う時に、

相対・主客の考え方を離れられないのである。



〔「抄」私訳〕

「いはんやいまの道は、本覚を前途にもとむるにあらず、

始覚を証中に拈来するにあらず」とある。


これは「海印三昧」のすがたである。本当に「本覚」を待つのではなく、「始覚」を論じるまでもない道理があきらかである。


「おほよそ本覚等を現成せしむるは仏祖の功徳なりといへども、

始覚・本覚等の諸覚を仏祖とせるにはあらざるなり」とある。


「仏祖」の言葉で、「本覚等」の言葉を「現成せしむる」ことがあるといっても、「始覚・本覚等の諸覚を仏祖とするのではない」と言うのである。

これはすなわち、「本覚」という言葉は決して捨てるべきではないが、

教家論師などが言うようには言わない所を、「仏祖とするのではない」

と嫌われるのである。


(仏言、「但以衆法タンニシュホウ、合成此身ゴウジョウシシン。起時唯法起キジユイホウキ、滅時唯法滅メツジユイホウキ。此法起時シホウキジ、不言我起フゴンガキ。此法滅時、不言我滅」。

《仏言はく、「但衆法を以て此身を合成す。起時は唯法の起なり、滅時は唯法の滅なり。此の法起る時、我起ると言はず。此の法滅する時、我滅すと言はず」。》


初めに出された文章を、繰り返しここに一文字も違いなく書き出されたことは、いかにも不審である。順次この不審を、はっきりさせるのである。

これから後は、上に出た仏の言葉の「但以衆法、合成此身」の一段を一句毎に解釈されるのである。以下述べる通りである。



                          合掌

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