〔『聞書』私訳〕
/「始覚・本覚」は、たとえ「始覚」であっても「本覚」であっても、
「前途」の位を置き「拈来」するのは「仏祖」の「道」には不足である。
だから、これを低くして「始覚・本覚等の諸覚を仏祖とせるにはあらざるなり」と言い、「仏祖」の方からは、「始覚・本覚」の道理を明らかにすれば「仏祖の功徳なり」というのである。
/教で、「始覚は本覚に冥す」と言う。また、「始覚本覚不二」と言う。
この宗門では、釈迦牟尼仏が三十歳でブッダガヤで成道された時、「大地有情同時成道」と仰られたから、「始覚」と取ることはできず、今また成道されたから「本覚」と言うこともできない。
「始覚・本覚」を共に超越した成道と言うのである。このように言えばまた、そうであるからこそ冥すのだと言うと心得る人々もあろう。
しかし、冥と言えば、やはり「本覚・始覚」を共に立てて冥と言う時に、
相対・主客の考え方を離れられないのである。
〔「抄」私訳〕
「いはんやいまの道は、本覚を前途にもとむるにあらず、
始覚を証中に拈来するにあらず」とある。
これは「海印三昧」のすがたである。本当に「本覚」を待つのではなく、「始覚」を論じるまでもない道理があきらかである。
「おほよそ本覚等を現成せしむるは仏祖の功徳なりといへども、
始覚・本覚等の諸覚を仏祖とせるにはあらざるなり」とある。
「仏祖」の言葉で、「本覚等」の言葉を「現成せしむる」ことがあるといっても、「始覚・本覚等の諸覚を仏祖とするのではない」と言うのである。
これはすなわち、「本覚」という言葉は決して捨てるべきではないが、
教家論師などが言うようには言わない所を、「仏祖とするのではない」
と嫌われるのである。
(仏言、「但以衆法タンニシュホウ、合成此身ゴウジョウシシン。起時唯法起キジユイホウキ、滅時唯法滅メツジユイホウキ。此法起時シホウキジ、不言我起フゴンガキ。此法滅時、不言我滅」。
《仏言はく、「但衆法を以て此身を合成す。起時は唯法の起なり、滅時は唯法の滅なり。此の法起る時、我起ると言はず。此の法滅する時、我滅すと言はず」。》)
初めに出された文章を、繰り返しここに一文字も違いなく書き出されたことは、いかにも不審である。順次この不審を、はっきりさせるのである。
これから後は、上に出た仏の言葉の「但以衆法、合成此身」の一段を一句毎に解釈されるのである。以下述べる通りである。
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