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その知が微であるのは、分別の思いがないからである『第十二坐禅箴』12-10-6b

 〔『聞書』私訳〕

/「龍を作するに、禹門の内外にかゝはれず」とは、「事に触れず」、「縁に対せず」である意味合いである。「禹門ウモン」に登らない時も「龍」である。


「禹門」には三段の滝があり、これを蛇あるいは魚類が登って「龍」となると言うのである。登る前から「龍」となっているのであれば「禹門」の話はあるはずがない。坐禅もこのようである。


/「一知わづかに使用する」とは、この「知」は我々の考えのことかと思われるが、そうではない。「一知」とは「事に触れず」であるところを「一」と言うのである。「一知半解」という「知」は、先の「一知」を指すのである。凡夫の慮知ではなく、全体「知」よりほかにものがないから「一知」と言うのである。


/「分別思量のおそく来到する」とは、日頃の「分別思量」ではない。山河・尽界を指すのであるから、「已曾分別なる仏々」の「現成」である。「曾無分別」という「無」は「已曽」であるから、「已曾」が「現成」すれば「曾無分別」である。


まったく出逢うべきものがないことを「一人に逢わず」と言うのである。「已曾分別」とは山河を用いてするのである。「曾無」は「已曾」である。「不逢一人」は「大用現前」である。



〔『抄』私訳〕

「其知自微、曾無分別之思」「思」の「知」なる、かならずしも他力をからず。「其知」は形なり、形は山河なり。この山河は「微」なり、この微は妙なり、使用するに活撥々なり」とある。


この言葉は、「曾て分別の思無き」意味合いを「知」とするのだと心得て、「分別の思」と言うと、嫌うべき言葉などと言うから、この「思」を除いた良い「知」と心得るであろうが、そうではない。


「思の知なる、かならずしも他力をからず」と言う、「分別の思」を「知」と言うからには、取捨の言葉でないことは明らかである。この「思の知なる」道理の上は、また「他力」を借りないことは言うまでもないことである。


この「知」の「形は山河なり」とあり、「山河」を今は「知」と言うのである。『仏性』の巻でも「一山河大地・二山河大地」を仏性と説いたので、この「知」の「形は山河なり」とあるのは、今さら驚くべきことではない。


「この山河は微なり、この微は妙なり」とあり、文の通りである。「使用するに活撥々なり」とあるのは、「使用」とはこの道理を使うという道理である。「使用する」時は「活撥々なり」と言う。「活撥々」とは活き活きとしている意味合い、解脱の意味合いであり、どこまでも突き抜けている意味合いである。

〔抄私訳〕

「龍を作するに、禹門ウモンの内外ナイゲにかゝはれず。いまの一知わづかに使用するは、尽界山河を拈来し、尽力して知するなり。山河の親切にわが知なくは、一知半解イッチハンゲあるべからず」とある。


蛇は「禹門」に登って移る時、必ず「龍」となるのである。登りそこねてしまうと、「龍」とならずに死ぬのである。今の坐禅は、蛇である時も坐禅、「龍」である時も坐禅、「禹門」に登る時も登らない時も、みな共に坐禅であるから、「禹門の内外にかかはれず」とあるのである。


今の「一知」を「使用するは、尽界山河を拈来し、尽力して知するなり」とは、つまるところ「尽界山河」を「知」と言うという意味合いである。


「山河の親切にわが知なくは、一知半解あるべからず」とは、「山河」を「知」と言うので、この道理が「山河の親切」と言われるのである。「わが」という我は「山河」であり、「知」であり、この外には「一知半解あるべからず」なのである。


「分別思量のおそく来到するとなげくべからず。已曾分別イゾウフンベツなる仏々、すでに現成しきたれり。「曾無」は已曾なり、已曾は現成なり。しかあればすなはち、「曾無分別」は、不逢一人フホウイチ人なり」とある。


これは「知」のほかに「一知半解あるべからず」と上では言う。そうであれば「分別思量」はあってはならないのかと思われるところを、「分別思量」がどうしてないことがあろうかと言うのであるから、当然「分別思量」はあるのである。


その「分別思量」はどういうことかと言えば、「已曾分別なる仏々、すでに現成しきたれり」とある。「已曾分別」とは、今始めて出てきたことではなく、無始無終などという意味合いである。つまるところ、「仏々」を「已曾分別」と言うのである。


「曾無」と言えば、無の言葉かと思われるところを、「曾無は已曾なり」とあり、現成の言葉なのである。「曾無分別は、不逢一人」とは、「曾無分別」のほかに、また交わるものがないところを「不逢一人」と言うのである。



                            合掌

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