〔『聞書』私訳〕
/「不対縁而照」(縁に対せずして照らす)と言う、
教家では観照ということがあり、寂照ということもある。但し、何と言っても、事理(現象と真理)の二法を立てて言うようなことは、ここでは採用できない。寂にして照である、照にしてであり寂であるといっても、二法を離れないからである。「不対縁」であるのをそのまま「照」と言うのである。
/「破界不出頭」(界を破するも頭を出さず)とは「頭」の字は別に要はなく、ただ「不出」なのである。境を定める時に、入出の意味があるのである。世界を坐破したからには「不出頭」と言われるのである。
/「照」は「回互」の意味であるが、「不対縁」の「照」であるから「不回互」である。
〔『抄』私訳〕
「この照は照了の照にあらず、霊照にあらず、不対縁を照とす。照の縁と化せざるあり、縁これ照なるがゆゑに。」とある
この「照」もまた照らすもの照らされるものと言い、何も置かないで照らすということは言えないから、「照了の照にあらず、霊照にあらず」と嫌われるのである。「霊照」などと言えば、神変などによって照らすようなこともあるかもしれないが、どのように言っても、今の「照」の意味に似ることはない。今の「照」は「不対縁」を「照」と言うのである。「縁これ照なるがゆゑに」、「照の縁と化せざるあり」と嫌われるのである。
「不対といふは、遍界不曽蔵なり、破界不出頭なり。微なり、妙なり、回互不回互なり。」とある。
「遍界不曽蔵」(遍界曽て蔵さず)の道理が「不対」である。「破界不出頭」(界を破するも頭を出さず)は実にその通りである。「破界」の上で、どのような「出頭」するものがあろうか。「微なり、妙なり」とは、微妙の言葉である。「遍界不曽蔵」の姿がこのように言われるのである。「回互不回互」も同じ意味である。これは能所がなく、解脱の上で使われる言葉である。
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