〔『正法眼蔵』原文〕
「不触事而知フソクジニチ」。
「知」は覚知にあらず、覚知は小量なり。
了知の知にあらず、了知は造作ゾウサなり。
かるがゆゑに、「知」は「不触事」なり、不触事は知なり。
遍知と度量タクリョウすべからず、自知と局量キョクリョウすべからず。
その不触事といふは、明頭来明頭打ミントウライミントウダ、
暗頭来暗頭打なり、坐破孃生皮ザハニョウサンピなり。
〔『正法眼蔵』私訳〕
「事に触れないで知る」と宏智禅師は言う。
(「不触事而知」。)
知は知覚で捉える知ではない、知覚で捉える知は知覚で捉えた分だけ少量である。
(「知」は覚知にあらず、覚知は小量なり。)
〔手を打つと、「パン!」。それが知であり、「パン!」の全部である。「パン!」を知覚で捉えた知は、知覚で捉えた分だけ少量である。〕
了知(理解して知る)の知ではない、了知は人間の作り事である。
(了知の知にあらず、了知は造作なり。)
〔理解してから、「パン!」と聞こえるのではない。
理解は人間の作り事である。〕
それゆえ、知は事に触れないのであり、事に触れないのが知である。
(かるがゆゑに、知は不触事なり、不触事は知なり。)
〔向こうの音に触れるということなく、
いきなり「パン!」と聞こえる、それが知である。〕
これで全部だと推し量ってはいけない、
これが自分の様子だと限定してはいけない。
(遍知と度量すべからず、自知と局量すべからず。)
その事に触れないというのは、明の時はすべて明、暗の時はすべて暗(その時その時のその様子がすべてである)ということであり、母が生んだこの身体を解脱する(この世に生まれ出て来た事を知らない時の自分の様子に出会う)ことである。
(その不触事といふは、明頭来明頭打、暗頭来暗頭打なり、坐破孃生皮なり。)
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