〔『聞書』私訳〕
/「不触事而知」とは仏の正遍知である。「知」は「不触事」であり、「不触事」は「知」であると、このように引っくり返して言わなければ、「不触事」〔と「知」〕がまだそれぞれ別であるように思われる。「知」はそのまま「不触事」と心得るべきである。この「不触事而知」を、達磨宗のように説くときは、「了々常知」と談じて「境にかゝはらざる知なり」と言う。
「境にかゝはらざる」というのは、白と知り黒と知る、境に白黒があるけれども、知の体は一つである、だからこの知は「境にかゝはらず」と言うのであるが、今はそういうことではない。一つの「知」が現前するとき、事として触れることができるものはない。例えば、「三界唯一心」「心外無別法」と言う時、唯心の道理が現前する時は三界に触せずというようなことである。
〔『抄』私訳〕
「知は覚知にあらず、覚知は小量なり。了知の知にあらず、了知は造作なり。かるがゆゑに、知は不触事なり、不触事は知なり。遍知と度量すべからず、自知と局量すべからず」とある。
「知」ということは、世間では一般的に知ることと知られるものを立ててこれを言い、対象を立てないで「知」ということは言えないのである。今の「不触事而知」の「知」はそういうことではないのであるから、「知は覚知にあらず、覚知は小量なり。了知の知にあらず、了知は造作なり」と嫌われるのである。
今の「知」は「不触事」を「知」と言うので、「不触事」が「知」であると解釈されるのである。「遍知と度量すべからず、自知と局量すべからず」とこれを制せられるのである。
合掌
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