スキップしてメイン コンテンツに移動

宏智禅師の坐禅箴『第十二坐禅箴』12-10-1a

〔『正法眼蔵』原文〕

 坐禅箴は、大宋国慶元府ケイゲンフ太白名山タイハクメイサン天童景徳寺テンドウケイトクジ

宏智ワンシ禅師正覚ショウガク和尚の撰せるのみ仏祖なり、坐禅箴なり、道得是ドウトクゼなり。


ひとり法界の表裏に光明なり、古今の仏祖に仏祖なり。


前仏後仏この箴シンに箴せられもてゆき、今祖古祖この箴より現成するなり。


かの坐禅箴は、すなはちこれなり。


 坐禅箴  敕謚チョクシ宏智ワンシ禅師 正覚ショウガク 撰


  仏々要機、祖々機要。

 《仏々の要機、祖々の機要》


  不触事而知フソクニジチ、不対縁而照フタイエンニショウ

   《事を触ソクせずして知り、縁に対せずして照らす》


  不触事而知、其知自微ゴチジミ

   《事を触せずして知る、其の知自オノヅカら微なり》


  不対縁而照、其照自妙。

   《縁に対せずして照す、其の照自ら妙なり》


  其知自微、曾無分別之思ゾウムフンベツシシ

   《其の知自ら微なり、曾て分別の思無し》


  其照自妙、曾無毫忽之兆ゾウムゴウコツシシ

   《其の照自ら妙なり、曾て毫忽の兆チョウ無し》


  曾無分別之思、其知無偶而奇ゴチムグウニキ

   《曾て分別の思無き、其の知無偶にして奇なり》


  曾無毫忽之兆、其照無取而了ゴショウムシュニリョウ

   《曾て毫忽の兆無き、其の照取ること無くして了なり》


  水清徹底兮スイセイテッチケイ、魚行遅々ギョコウチチ

   《水清んで底に徹トホつて、魚の行くこと遅々オソシ


  空闊莫涯兮クウカツマクガイケイ、鳥飛杳杳チョウヒヨウヨウ

   《空闊ヒロくして涯カギりなし、鳥の飛ぶこと杳々ヨウヨウなり》



〔『正法眼蔵』私訳〕

坐禅箴は、大宋国慶元府、太白名山、天童景徳寺、宏智禅師正覚和尚が撰述されたものだけが、仏祖の作であり、真の坐禅箴であり、言われていることは正しいのである。

(坐禅箴は、大宋国慶元府太白名山天童景徳寺

 宏智禅師正覚和尚の撰せるのみ仏祖なり、坐禅箴なり、道得是なり。)


この坐禅箴だけが世界の表裏を貫き照らす光明であり、

古今の仏祖の中の仏祖によるものである。

(ひとり法界の表裏に光明なり、古今の仏祖に仏祖なり。)


以前の仏も以後の仏もこの坐禅箴に戒められていき

古今の祖師もこの坐禅箴により真の祖師となるのである。

(前仏後仏この箴に箴せられもてゆき、今祖古祖この箴より現成するなり。)


その坐禅箴とは、すなわちこれである。

(かの坐禅箴は、すなはちこれなり。)


 坐禅の戒め  天子からのおくり名宏智禅師 正覚が撰述したもの。

 (坐禅箴 敕謚宏智禅師正覚撰)


坐禅は、あらゆる仏の要カナメのはたらきであり、

あらゆる祖師のはたらきの要である。

 (仏仏要機、祖祖機要。 《仏仏の要機、祖祖の機要。》)


事に触れないで知り、縁に相い対せずして照らす。

 (不触事而知、不対縁而照。 《事を触せずして知り、縁に対せずして照らす。》)


事に触れないで知る、その知は自ずから微である。

(不触事而知、其知自微。 《事を触せずして知る、其の知自ら微なり。》)


縁に相い対せずして照らす、その照は自ずから妙である。

(不対縁而照、其照自妙。 《縁に対せずして照す、其の照自ら妙なり。》)


その知が自ずから微であるのは、かつて分別の思いがないからである。

 (其知自微、曾無分別之思。 《其の知自ら微なるは、曾て分別の思無し。》)


その照が自ずから妙であるのは、

かつて毛の先ほどの分別も兆すことがないからである。

(其照自妙、曾無毫忽之兆。 《其の照自ら妙なるは、曾て毫忽の兆無し。》)


かつて分別の思いがない、その知は相い対するものがなく一つである。

 (曾無分別之思、其知無偶而奇。 《曾て分別の思無き、其の知無偶にして奇なり。》)


かつて毛先ほどの分別も兆すことがない、

その照は取ることなく了々と照らすのである。

(曾無毫忽之兆、其照無取而了。 《曾て毫忽の兆し無き、其の照取ること無くして了なり。》)


水は澄んで底まで透き通り、魚はゆったりと泳いでいる。

(水清徹底兮、魚行遅遅。 《水清んで底に徹り、魚の行くこと遅遅オソシ。》)


 空は広く限りなく、鳥は遥か彼方まで飛んで行く。

(空闊莫涯兮、鳥飛杳杳。 《空闊くして涯りなし、鳥の飛ぶこと杳杳なり。》)





                               合掌

ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                       


     ↓               ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ   にほんブログ村PVアクセスランキング にほんブログ村

コメント

このブログの人気の投稿

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

坐禅は身心の今の様子のままにただ親しくいるだけである『第十一坐禅儀』11-1-1a

正法眼蔵第十一 坐禅儀 ザゼンギ 〔『正法眼蔵』原文〕   参禅は坐禅なり 。  坐禅は静処 ジョウショ よろし。坐蓐 ザニク あつくしくべし。 風烟 フウエン をいらしむる事なかれ、雨露 ウロ をもらしむることなかれ、 容身 ヨウシン の地を護持すべし。 かつて金剛 コンゴウ のうへに坐し、盤石 バンジャク のうへに坐する蹤跡 ショウセキ あり、 かれらみな草をあつくしきて坐せしなり。 坐処あきらかなるべし、昼夜くらからざれ。 冬暖夏涼 トウダンカリョウ をその術とせり。  諸縁を放捨し、万事 バンジ を休息すべし。 善也不思量 ゼンヤフシリョウ なり、悪也不思量なり。 心意識にあらず、念想観にあらず。 作仏 サブツ を図 ズ する事なかれ 、坐臥 ザガ を脱落すべし。  飲食 オンジキ を節量すべし、光陰を護惜 ゴシャク すべし。 頭燃 ズネン をはらふがごとく坐禅をこのむべし。 黄梅山 オウバイサン の五祖、ことなるいとなみなし、唯務 ユイム 坐禅のみなり。  坐禅のとき、袈裟 ケサ をかくべし、蒲団 フトン をしくべし。 蒲団は全跏 ゼンカ にしくにはあらず、跏趺 カフ のなかばよりはうしろにしくなり。 しかあれば、累足 ルイソク のしたは坐蓐 ザニク にあたれり、 脊骨 セキコツ のしたは蒲団にてあるなり。 これ仏々祖々の坐禅のとき坐する法なり 。 〔『正法眼蔵』私訳〕 正しい坐禅の仕方 (坐禅儀)   禅 (自己の真相:今の様子) に参ずる (親密にいる) のは、 公案を拈ることではなく 坐禅することである 。 (参禅は坐禅なり。)  坐禅は静かな処が適切である。 (坐禅は静処 ジョウショ よろし。) 座布団を厚く敷きなさい。 (坐蓐 ザニク あつくしくべし。) 風や霞が入らないようにし、雨や露が漏れてこないようにして、 身を容 イ れる場所を清潔に保ちなさい。 (風烟をいらしむる事なかれ、雨露をもらしむることなかれ、 容身の地を護持すべし。) かつて金剛座 (金剛石でできた坐処) の上に坐したり、 或いは大きい岩の上に坐した事跡があるが、 彼らはみな草を厚く敷いて坐ったのである。 (かつて金剛 コンゴウ のうへに坐し、盤石 バンジャク のうへに坐する蹤跡 ショウセキ あり、 かれらみな草をあつくしき...