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もし坐仏を学べば、それは殺仏である 『第十二坐禅箴』12-8-1b

 〔『聞書』私訳〕

/「汝若坐仏、即是殺仏」とは、坐れば仏であり、仏になるのを待つのではないから、「殺仏」なのである。「磨塼作鏡」の言葉で表してみると、坐仏が磨塼である。磨塼されて鏡となるのではなく、そのまま磨塼が作鏡である。だから、坐れば仏は殺されるのである。決して仏になることを待たないからである。


/「殺」ということは、ものの終わりに付いて言う。また、「殺」は「生命不殺」(いのちを殺さないこと)などと言う時に罪障往生や成仏を妨げる悪い行為に付ける。但し、仏法の修行の上ではそうではなく、生死に輪転する命を止めれば、これをも「殺」と使うのである。


仏は「無明塵沙の父母を殺す」とも言うことができる。仏は涅槃に入られるが、これも「殺」の意であろうか。また、涅槃と言ってもいろいろである。二乗の涅槃は再び生ずべき業がないのを涅槃と言い、凡夫の方では死と言い、外道は断とする。大乗の涅槃は生死の二つを解脱し、三界を唯心とする、これが仏の涅槃であり、世間の死のようなものではない。


「殺仏」ということは、初めて聞いて驚くようであるかもしれないが、「即心即仏」と言う時、また「非心非仏」と言う、これが「殺仏」である。珍しくないことである。例えば、「一方を証するれば一方はくらし」というのもこれほどのことであり、仏は衆生を殺し、衆生は仏を殺すとも言うことができるであろう。


このことは本当に一理あるが、今坐禅に対して、坐禅すればすなわち「殺仏」という言葉が、何に続いているとも分からないように思われるが、どうか。


答えて言う、この儀は何と言っても「愛惜棄嫌」の意味合いである。これは仏と衆生を主客(能所)と心得ず、ただ、仏は仏を殺し、衆生は衆生を殺すと言うべきである。その時は、「坐禅」「坐仏」「殺仏」などと分けてはならないと言うのである。



〔『抄』私訳〕

「南嶽いはく、『汝若坐仏ニョニャクザブツ、即是殺仏セツブツ《汝若し坐仏せば、即ち是れ殺仏なり》』。 いはゆるさらに坐仏を参究するに、『殺仏』の功徳あり。『坐仏』の正当恁麼時は『殺仏』なり。殺仏の相好ソウコウ光明は、たづねんとするにかならず坐仏なるべし」とある。


「坐仏、即是殺仏」の言葉は、大いに耳目を驚かせるように思われるが、仏は決して殺されるはずがない。五逆罪の中にも「出仏身血罪」(仏の身を傷つけ血を流す罪)があり、「殺仏」ということは名称から見てあるはずがない。


仏が在世していた時代でも仏を殺し奉ろうとしたけれども終に叶わなかったことがある。提婆達多ダイバダッタが、大石を投げたが、石のかけらが仏の御足に当たって血がしたたったことがあった。これはすなわち、提婆達多の五逆罪の内の第一である。


今の「殺仏」の言葉は、坐禅の姿を「殺仏」と使うのである。坐の外に何ものもない道理を「殺仏」と言われるのである。至って坐禅に親密である道理を「殺仏」と言われるのである。


だから、「坐仏の正当恁麼時は殺仏なり」とも言い、「殺仏の相好光明は、たづねんとするにかならず坐仏なるべし」とも言うのである。



                      合掌


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