〔『正法眼蔵』評釈〕
「学坐禅」「学坐仏」の言葉を、我々の日常生活に引き付けて味わってみたいと思います:
目を開くと、なぜかいきなり目の前の物が見える。
(学坐禅の端的いかなりとしらざるに学坐仏としりぬ。)
手を打つと、なぜかいきなり「パン!」と聞こえる。
(学坐禅の端的いかなりとしらざるに学坐仏としりぬ。)
ラベンダーに近づくと、なぜかいきなりラベンダーの香りがする。
(学坐禅の端的いかなりとしらざるに学坐仏としりぬ。)
麦茶を飲むと、なぜかいきなり冷えた麦茶の味がする。
(学坐禅の端的いかなりとしらざるに学坐仏としりぬ。)
我々はまさにこのような活動をしています。
また、その時のありようはその時初めてで、
その時のありようはその時きりだと自覚することが肝要であるから、
「初心の坐禅は最初の坐禅なり、最初の坐禅は最初の坐仏なり」と言われるのです。
我々はこのようにして、まさに我々の日常生活において、
坐禅すれば坐仏であるという真実を学ぶことができるのです。
合掌
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