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瓦を磨く?『第十二坐禅箴』12-3-1b

 〔聞書私訳〕

/「南嶽ときに一塼イッセンをとりて石上にあててとぐ」とある。

古仏心は牆壁瓦礫と言う。そうであれば、古仏心を磨くとも心得ることができよう。三界仏身と聞き、諸法を実相と言えば、三界を磨くとも心得、実相を磨くとも言うことができよう。


/「たれかこれを磨塼とみん」とは、仏の見方で解釈する「磨塼」の始めから終わりまでに暗いから、「たれかこれを磨塼とみざらん」とは、衆生の見方を指す「磨塼」と見るからである。但し、このように言えば、まったく本意ではない。仏法の話に衆生の見方を用いてはならないから、「見る」と言っても「見ない」と言っても、共に仏の見方を説くのである。


「たれかこれを磨塼とみざらん」ということは、始めから終わりまでの本意である。道理に叶うからである。


仏道にはまったく不見ということはなく、「たれかこれを磨塼と見ん」と言うのもまた道理である。「磨塼」とは思われないから、兀々地とも作仏とも坐禅とも見るべきであるからである。今は坐仏と見、作鏡と見るべきであるから、「たれかこれを磨塼とみん」と説かれるのである。


/「依経解義、三世仏怨、離経一字、如同魔説」(経に依って義を解するは三世仏の怨、経の一字を離れては魔説に同ずるが如し)という文を、間違って凡夫が理解する所を言うのであろうと、悪く解するのである。


これは一つの意味で、本意ではない。「仏の怨アダ」と言っても世間の「怨」と理解してはならず、「魔説」と言っても世間の「魔」ではない。


「怨」と言っても、「不悟至道す」(悟らずに道に至る)と説く不悟、また「諸法の仏法なる時節」(すべてのものが仏法である次節)の迷、或いは「将錯就錯」(錯りによって錯りに就く)ほどのあやまりと心得るべきである。若至・既至・不至などというほどである。


「魔」とは入仏入魔の「魔」、鬼窟裏などという鬼ほどに心得るべきである。「磨塼」が見・不見に定まれば、「作什麼」とは言わないのである。


/「たれかこれを磨塼とみざらん」という意味は、「磨塼」の外に誰もいないということである。「たれかこれを磨塼とみん」というのは、誰もいないから見ることができないという意味である。


この二つの意味があるから「作什麼」(何をしているのですか)と言われるのである。これによって、「作什麼なるは、かならず磨塼なり」と言うのである。



〔抄私訳〕

「南嶽ときに一塼イッセンをとりて石上にあててとぐ。大寂つひにとふにいはく、『師、作什麼ソシモ《師、什麼をか作す》』。まことに、たれかこれを磨塼マセンとみざらん、たれかこれを磨塼とみん。しかあれども、磨塼はかくのごとく『作什麼』と問モンせられきたるなり。『作什麼』なるは、かならず磨塼なり」とある。


この問答は、文の通りである。この「大寂」の「作什麼」の言葉は「兀々地思量什麼」(岩のように坐って何を思量しているのか)と言う「什麼」と同じ言葉である。


これも普通の考え方では、「塼カワラ」を磨くのを見て、何をしているのかと問うたように思われるが、ここでは「坐禅」と言う、「思量箇不思量底」(今このようにある、思量していない今の様子のままに居る)と言う、「作仏」と言うべきか、「塼」と言うべきか、「鏡」と言うべきか、どれとも言い難い道理を例のように問いとして、「まことに、たれかこれを磨塼と見ざらん」と言うのである。


しかし、この「大寂」の「作什麼」の道理を正しく知る人がいないから、「たれかこれを磨塼と見ん」と言う。「磨塼」の道理は、このように「作什麼」と言わなければならないのである。


                   合掌


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