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たとえ百万義諦であっても、みな悟りである 『第十大悟』完10-4-4b

 〔抄私訳〕

「しかあるを、さとりといふはいはる、しかあれども、「第二頭へおつるぞいかにかすべき」といひつれば、「第二頭もさとりなり」といふなり。第二頭といふは、「さとりになりぬる」といひや、「さとりをう」といひや、「さとりきたれり」といはんがごとし。「なりぬ」といふも、「きたれり」といふも、さとりなりといふなり。」とある。以上文の通り。


「たとへば、昨日のわれをわれとすれども、昨日はけふを第二人といはんがごとし。」とある。


これは、「昨日のわれ」「今日のわれ」と言えばただ同じものであることを言うのである。


〔抄私訳〕

「而今のさとり、昨日にあらずといはず、いまはじめたるにあらず、かくのごとく参取するなり。しかあれば、大悟頭黒トウコクなり、大悟頭白トウハクなり。」とある。


今の「大悟」によって、「黒」とも「白」とも使うのである。猿の上で「黒」「白」を談ずるようなものである。


〔聞書私訳〕

/「しかあれば、第二頭におつることをいたみながら、第二頭をなからしむるがごとし。さとりのなれらん第二頭は、またまことの第二頭なりともおぼゆ。しかあれば、たとひ第二頭なりとも、たとひ百千頭なりとも、さとりなるべし。第二頭あれば、これよりかみに第一頭のあるをのこせるにはあらぬなり。」とある。


/「第一頭」(第一義諦)は、置くこともあるだろう、消えると理解する仕方もあるだろう。「仏」が「一乗」と説いておられるのは二、三に対する一ではないから「一」という言葉もあるのである。「仮」(かる)と言い「不落」(おちない)と言うのと同じである。


/落便宜ラクビンギという言葉がある。便宜(都合が好いこと)である、

便宜に従うなどというほどのことに用いる。


/この「落」を脱落の落と理解しては、どうか。但し、これは経豪の私の愚案である。恐るべし、恐るべし、早く改めるべきである、早く改めるべきである。

〔この経豪の割注と相応する注が『抄』に見当たらないので、書誌学的には検尋を要するようです。〕


/「第二」という言葉は「第二」月という言葉から言い始めたのである。「悟りを得」が「第二頭におつる」ことであるというのである。


「第二」月とは、目を患って月を見ると月が二つある。これは実在の月ではなく、「第二」の月は偽りの月である。このために、「第二頭」は「さとり」ではないと言うが、そうではなく、「第二頭」がそのまま「さとり」であるのである。


「第二」月を「迷」と理解する場合も、ただ「第一」月だけがあるのである。「第二」月の下にこそ、そのまま「第一」の義が現れるので、このように説くのである。

〔この文は、一方が究め尽くすに至る経緯を明らかにしている。〕



〔聞書私訳〕

/「昨日のわれをわれとすれども、昨日はけふを第二人といはんがごとし。而今のさとり、昨日にあらずといはず、いまはじめたるにあらず」と言う、文の通りである。


「昨日」と言い「而今」と言っても、「われ」はそれぞれ別ではないのである。


/「しかあれば、大悟頭黒なり、大悟頭白なり」という「黒」「白」の言葉が変わっても、つまるところ、「大悟頭」の上に両方とも置く、「挙拈コネンする使得シトク十二時あり、抛却ホウキャクする被使十二時あり」(大悟が現成するときは二十四時間を使い得、大悟が隠れるときは二十四時間に使われるのである)と言うようなものである。


究極のところは、「さとり」より外に余る所がないというのである。


/「今時の人」という「今時」は、「頭黒」である。


/「仮悟否《悟を仮るや否や》」の「仮悟」は、「頭白」である。



                         合掌



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