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むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b

 〔抄私訳〕

「『還仮悟否ゲンケゴヒ《還って悟を仮るや否や》』。この道をしづかに参究して、胸襟キョウキンにも換却すべし、頂𩕳チョウネイにも換却すべし。」とある。


人と悟をどうしてもそれぞれ別に置いて理解するが、

この還仮悟否の言葉を静かに参究して、

親しく胸にも頭頂にも取り換えて理解せよと言うのである。


頂・胸などと言うと、一体何事かと思われるけれども、

これは至って親しい言葉である。

悟は特別なものでない道理を述べる言葉である。


「近日大宋国禿子トクス等いはく、『悟道是本期ゼホンゴ《悟道是れ本期なり》』

かくのごとくいひていたづらに待悟す。しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰ランダにして蹉過サカするなり。古仏の出世にも度脱せざりぬべし。」とある。


文の通り理解すべきであり、子細は無い。



〔聞書私訳〕

/「古仏の出世にも度脱せざりぬべし」と言う、

古仏として示すことは、どういうことか。


未来の新仏の出世ならどうかと一旦は思われるが、

仏は新しいか古いかには関係ない。


たとえどんな仏の出世に出会っても、このような片寄った見方では、

度脱煩悩を脱して安楽の地に至ることできないと言うのである。


/「悟道是本期ゴドウゼホンゴ《悟道是れ本期(本来期待するところ)なり」と言う、

教に言う「待悟為則」(悟を待つのを則ノリとなす)の意味合いであり、

用いてはならない。


                         合掌



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