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すべての人の上にある様子は、必ず今の様子である。『第十大悟』10-4-1a

〔『正法眼蔵』本文〕

 京兆米胡メイウ和尚、令僧問仰山キョウザン、「今時人、還仮悟否」。

 《京兆米胡和尚、僧をして仰山に問はしむ、今時の人、還て悟を仮るや否や》


 仰山云、「悟即不無、争奈落第二頭何」。

 《仰山云く、悟は即ち無きにあらず、第二頭に落つることを争奈何イカニカセん》

 

 僧廻挙似米胡。胡深肯之。

 《僧、廻カヘりて米胡メイウに挙似す。胡、深く之を肯ケンせり》


 いはくの今時は、人々ニンニンの而今ニコンなり。


令我念レイガネン過去未来現在《我をして過去、未来、現在を念ぜしむ》

いく千万なりとも、今時なり、而今なり。


人々の分上は、かならず今時なり。


あるいは眼睛ガンゼイを今時とせるあり、あるいは鼻孔ビコウを今時とせるあり。



〔『正法眼蔵』私訳〕

 京兆ケイチョウ(長安の都)の米胡ベイコ和尚が、

僧を使って、仰山ギョウザンに問わせた、

「今時の人は、また悟りを借りるかどうか」。

(京兆米胡和尚、僧をして仰山に問はしむ、今時の人、還て悟を仮るや否や。


仰山が言った、「悟りは無いことはないが、究極の真理である第一義諦から

第二義諦に落ちることをどうするのか」。

(仰山云く、悟は即ち無きにあらず、第二頭に落つることを争奈何ん。

〔第一義諦には悟りも迷いもない。悟りは仮りのもので、元からあるものではない。悟りに拘泥しているようでは、

究極の真理から落ちてしまうぞ、と言うのである。〕


僧は、帰って米胡和尚にこの話をした。米胡は、深くこれを肯ウケガった。

(僧、廻りて米胡に挙似す。胡、深く之を肯せり。)


 ここで言う今時とは、人それぞれの今の様子である。

 (いはくの今時は、人々の而今なり。)


私に幾千万の過去・未来・現在を思わせても、今時であり、今の様子である。

(我をして過去、未来、現在を念ぜしむいく千万なりとも、今時なり、而今なり。)


すべての人の上にある様子は、必ず今の様子である。

(人々の分上は、かならず今時なり。)


眼がはたらいている様子を今の様子としている人もあり、

鼻孔ハナノアナがはたらいている様子を今の様子としている人もいるのである。

(あるいは眼睛を今時とせるあり、あるいは鼻孔を今時とせるあり。)


                         合掌


人の上にある様子は、必ず今の様子である。『第十大悟』10-4-1b

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