スキップしてメイン コンテンツに移動

すべての人の上にある様子は、必ず今の様子である。『第十大悟』10-4-1b

 〔抄私訳〕

「いはくの今時は、人々ニンニンの而今なり」とは、「今時の人」の人と同じであり、「過去現在未来いく千万なりとも、今時なり、而今なり」と言うのである。つまるところは、三世を「今時」とも「而今」とも指すのである。


この三世も「今時」も「而今」も、みな「大悟」なのである。


「人々の分上は、かならず今時なり」というこの「人」はまた「今時の人」の人なのである。


「あるいは眼睛を今時とせるあり、あるいは鼻孔を今時とせるあり」とある。


人の言葉に寄せて、「あるいは眼睛」「あるいは鼻孔」を「今時とせるあり」と言うのである。今の「今時の人」の上で「眼睛」も「今時」と言い、「鼻孔」も「今時」と言うのである。



〔聞書私訳〕

/△米胡の段。

「京兆米胡メイウ和尚、令僧問仰山〜過去未来現在いく千万なりとも、今時なり、而今なり。人々の分上は、かならず今時なり」と言うこの「今時」は、三世はないという考えである。


「我をして過去未来現在を念ぜしむ」とは、過去というのも未来というのも、「今時の人」が「念」を借りるだけであり、念は身から離れないので、身は「念」に連れ立っていくはずであるから、「過去」も「今時」であり「未来」も「今時」であるという考えである。


「人」も仏道の人であり、「今時」も仏法の上で理解すべきである。

「今時の人」とは「悟を仮る」というのと同じほどのことである。


また、「今時の人」は山人・水人・眼睛人である。「悟」を借りて「大悟」するという言葉もある。これは悟りが悟りを借りると言うのである。

「木石」を借りて「大悟」するというほどのことである。


/三世の中にある身と思っているが、今(宗意)は我れの中に三世があると言うのである。この三世、我々が日頃思っているように、吾我(自我)に対して、過ぎたことを「過去」と言い、留まることを「現在」と言い、未だ来ないことを「未来」と言うのは、取るに足りないことである。

刹那の瞬間にもこの三世はあるのである。


「過去」の千仏、「現在」の千仏、「未来」の千仏と言う。

れはただ、紙三枚の内の一枚を「過去」と言い、一枚を「現在」と言い、

一枚を「未来」と言うのか、はっきりしないことである。


「心外無別法」(一切の現象は、すべて各自の心から出たもので、現象が別に実在するのではないと言う時、三世をどのように分けるのか。

「唯一心」の三世では、「一心」があって言うのか、傍観者がいて定めるのか、仏法では三世は道理に当たらないのである。



〔聞書私訳〕

/「あるいは眼睛を今時とせるあり、あるいは鼻孔を今時とせるあり」とある。


「今時」の「今」は、「過去」も「現在」も「未来」も、どれも「今」と言うことができる。「今時の人」は、また誰かを指すのではなく、「尽十方界真実人体」の「人」である。「今時の人」と言う時に「眼睛」「鼻孔」とあるのであり、別に子細はない。


また、「悟を仮る」というこの「悟」は、何とは言えないから、「しづかに参究」すれば、「胸襟にも換却すべし、頂𩕳にも換却すべし」とあり、何と具体的に指して言うのではない。祖師の言葉とはみなこのようなものなのである。



                         合掌



ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                       


     ↓               ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ   にほんブログ村PVアクセスランキング にほんブログ村

コメント

このブログの人気の投稿

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

総裁選挙期間中『正法眼蔵』ブログの配信を休みます。かわりに、

 今回の自民党総裁選挙は、30年の長期低迷中の日本を成長へと大胆に改革していけるか駄目かの運命を決めるものと、私は考えています。9名全員のビジョン・政策・発言を聞き、人気投票で選ばれるような総裁では、日本の成長は無理と考えられます。 そこで、369人の自民党国会議員と 105万人の自民党員が、日本の未来のために正しい判断をしてくれるよう、一つの意見としてSNSで発信しようと考えています。 まず、 拝啓 自民党国会議員各位  として新しいブログを始めました。時折覗いてみてください。またご意見などあれば是非およせください。 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...