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世界が崩壊する『第九古仏心』4-1a

〔『正法眼蔵』原文〕 

 漸源仲興ゼンゲンチュウコウ大師、因チナミニ僧問トウ

「如何是古仏心《如何にあらんか是れ古仏心》」。


 師云イハク、「世界崩壞《世界崩壞す》」


 僧云、「為甚麼世界崩壞《甚麼ナニとしてか世界崩壞なる》」。


 師云、「寧無我身《寧ムシろ我身無からん》」。


 いはゆる世界は、十方みな仏世界なり。


非仏世界いまだあらざるなり。


崩壞の形段ギョウダンは、この尽十方界に参学すべし、自己に学する事なかれ。



〔『正法眼蔵』私訳〕

 漸源仲興大師ゼンゲンチュウコウダイシに、ある時僧が尋ねた、

「いかなるものが古仏心ですか」。

(漸源仲興大師、因僧問、「如何是古仏心《如何にあらんか是れ古仏心》」。)

〔これも尋ねた言葉ではなく、道得だ。

「いかなるものも古仏心だ」と言うのである。〕


 師が言った、「世界が崩壊する

 (師云く、「世界崩壞《世界崩壞す》」。)

 〔尽界のあらゆるものは古仏心だから、

その時世界はみな壊れて古仏心に入ってしまう、と言うのである。〕

 

 僧が言った、「どうして世界が崩壊するのですか」。

 (僧云、「為甚麼世界崩壞《甚麼としてか世界崩壞なる》」。)

 〔いかなるものも古仏心だから、どうしても世界は壊れて、

古仏心の中に入らずにはおられない、と言うのである。〕


 師が言った、「むしろ我身、つまり世界はない」。

 (師云、「寧無我身《寧ろ我身無からん》」。)

 〔これもオウム返しで、不答話である。〕

 

 この世界は、十方みな仏の世界であり、

仏の世界でないところはまだないのである。

(いはゆる世界は、十方みな仏世界なり。非仏世界いまだあらざるなり。)


 崩壊のありさまは、尽十方界がみな古仏心であるということに学ぶべきであり、自己に学んではならないのである。

 (崩壞の形段は、この尽十方界に参学すべし、自己に学することなかれ。)

 〔古仏心が現成すると少しの自己も残らないからである。〕



                           合掌

『第九古仏心』第四段その1b〔世界が崩壊する〕


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