〔抄私訳〕
「漸源仲興ゼンゲンチュウコウ大師、因チナミニ僧問トウ、
「如何是古仏心《如何なるか是れ古仏心》」。
師云イハク、「世界崩壞《世界崩壞エす》」。
僧云、「為甚麼世界崩壞《甚麼ナニとしてか世界崩壞なる》」。
師云、「寧無我身《寧ムシろ我身無からん》」。
いはゆる世界は、十方みな仏世界なり。非仏世界いまだあらざるなり。
崩壞の形段は、この尽十方界に参学すべし、自己に学することなかれ。」とある。
「世界」については、仏土や穢土などさまざまに多くあるが、今はこの義ではない。ただ、「世界」という時は、尽界がみな「仏世界」であり、
「仏の世界でないところ」はないのである。
「崩壞の形段は、この尽十方界に参学すべし、自己に学することなかれ」とある。破鏡不重照(破れてしまった鏡は照らすことができない)の「崩壞」である。
〔聞書私訳〕
「いかなるも古仏心」と説くときには、「世界崩壞す」と言い、
また尽きることなく崩れ壞ヤブれるのである。
いわゆる「三界唯一心」(三界はただ一心である)とも破れ、
「心仏及衆生、是三無差別」(心と仏と衆生の三つは差別がない)とも破れ、
「尽十方界真実人体」(尽界はこの真実の身心である)とも、
「尽十方界沙門一隻眼」(尽界は実相を見る修行僧の片目である)とも、
「尽十方界一顆明珠」とも破れるのである。
また、心の法(存在)の外に法(存在)はないというのは、
「世界」が成立するとも言うのである。
合掌
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