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大悟を邪魔する迷はない 『第十大悟』10-3-6b

 〔抄私訳〕

「これは「大悟」は作仏サブツのごとし、「却迷」は衆生のごとし。還作ゲンサ衆生《還つて衆生と作る》といひ、従本垂迹ジュウホンスイジャク《本より迹を垂る》とらいふがごとく学すべきにはあらざるなり。」とある。


これは日頃、人が思っている考えを注釈されるのである。用いてはならない考えであるから、「学すべきにはあらざるなり」と嫌われるのである。


「かれは大覚ダイガクをやぶりて衆生となるがごとくいふ。これは大悟やぶるゝといはず、大悟うせぬるといはず、迷きたるといはざるなり。かれらにひとしむべからず。」とある。


本当に、この「大悟」を説く様子はこのようであり、文の通りである。


「まことに大悟無端なり、却迷無端なり。大悟を罣礙ケイゲする迷あらず。」とある。


「大悟」も「迷」も、辺際の無い道理をこのように言うのである。

「大悟を罣礙する迷」は本当にあるはずがなく、

また「迷」を「罣礙する」「大悟」もあるはずがないのである。


「大悟三枚を拈来して、少迷半枚をつくるなり。」とある。


これは、「大悟」と「却迷」が、極めて親しい時このように言われるのである。「大悟三枚を拈来して、少迷半枚をつくる」とは、「大悟」と「却迷」が、ただ同じものである道理をこのように言うのである。


「三枚」という言葉は、「大悟」を「三枚」と使い、「少迷半枚」も「迷」を「半枚」と使うのである。「迷」「悟」が互いに一つのものである道理がはっきりしている。「つくる」というのも、意識して造り出すということではなく、「大悟」と「却迷」の関係を「つくる」とも言うのである。


「こゝをもて、雪山セッセンの雪山のために大悟するあり、木石モクシャクは木石をかりて大悟す。諸仏の大悟は衆生のために大悟す、衆生の大悟は諸仏の大悟を大悟す、前後にかゝはれざるべし。」とある。


「雪山の雪山のために」とは、「大悟」は「大悟」のためにというほどのことである。「雪山」は大いなる涅槃(煩悩の迷いの火が吹き消され、完全なる智慧の悟りの境地が現成することを喩え、喩えるべきを喩えたという今の「雪山」とは、「大悟」を指すのである。「木石」の言葉もこれと同じである。


「諸仏の大悟は衆生のために大悟す」とは、今の「衆生」とは「大悟」であり、「諸仏の大悟は大悟のために大悟す」というほどの意味である。


どのようにでも「大悟」と言えば、人の上に「大悟」を持たせて考えるのが習慣となっている。今説くところはまったくそういうことではない。


「衆生の大悟は諸仏の大悟を大悟す、前後にかゝはれざるべし」と言い、

ただ同じことを打ち返して同じ理を注釈されるのである(仏から見れば、大悟も衆生も同じことであり、同じ理である)。衆生と諸仏の「前後にかゝはらざる」という意義である。



〔聞書私訳〕

/「諸仏の大悟は衆生のために大悟す、衆生の大悟は諸仏の大悟を大悟す」と言う、


この言葉は、いささか不釣り合いに思われる。「諸仏の大悟は衆生のために大悟す」と言えば、「衆生は仏のために大悟す」と言いたいところであるが、ここは「大悟」の巻であるから「大悟」を旨として説くのである。


『現成公案』の巻の、「悟上得悟の漢・迷中又迷の漢」という言葉と同じ意味であると思われる。ただ、それは、「諸法の仏法なる時、迷悟がある」と「万法がみなわれでない時、迷いもなく悟りもない」というところから出て、一句一句を等しくして言ったのであるが、ここは「大悟」を説くところであるから、「衆生の大悟は諸仏の大悟を大悟す」と言うのである。



                          合掌



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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

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