〔抄私訳〕
「しばらく功夫すべし、大悟底人の却迷は、不悟底人と一等なるべしや。
大悟底人却迷の時節は、大悟を拈来して迷を造作するか。
他那裏より迷を拈来して、大悟を蓋覆ガイフして却迷するか。
また大悟底人は一人にして大悟をやぶらずといへども、さらに却迷を参ずるか。
また大悟底人の却迷といふは、さらに一枚の大悟を拈来するを却迷とするかと、かたがた参究すべきなり。」とある。
一般には、「悟」と「迷」は大きく異なるものとして捉えられている。
しかし、ここでの「大悟底人却迷時如何」における「迷」と「悟」は、
本質的に異なるものではない。
まさに「大悟に徹した人」の「かえって迷うこと」は「不悟に徹した人」と同一であると理解すべきであることを、このように表現しているのである。
また、「大悟」を持って来て「迷を造作するか」とは、
「迷」と「悟」に差別がないからこそ、「大悟」の道理をもって、
「迷を造り出す」という面もある、という意味である。
さらに、「他那裏より迷を拈来して、大悟を蓋覆して却迷するか」とは、
外から「迷」を持って来て、ある時は「大悟」が覆い隠され、
「迷」だけが顕れて「大悟」が隠れる、という面もあるのである。
「迷」を証する時、「悟」は隠れると言うのである。
また、「大悟底人は一人にして、大悟をやぶらずといへども、さらに却迷を参ずるか」とは、「大悟」はあくまで「大悟」として破綻することなく存在しつつ、そのうえで「却迷」を修行するか、という問いである〔、と同時に真理を表した言葉である〕。
これは、「大悟」も「大悟」として動かさず、「却迷」も「却迷」として
共に存在させよう、という意図が込められている。
「また大悟底人の却迷といふは、さらに一枚の大悟を拈来するを却迷とするか」とは、「大悟」もう「一枚」持ってくることを「却迷」とするのか、
という問いかけである〔、と同時に真理を表した言葉である〕。
結局、多くの言葉が費やされているが、これらはすべて「迷」と「悟」が、実は別のものではなく、むしろ親しい関係にあるという道理を、表裏一体としてこのように説いているのである。
文中の「か、か」という問いかけは、何時ものように、この道理が常に存在すべきものであることをこのように述べており、これらの道理を「かたがた参究すべきなり」と言うのである。
「また大悟也一隻手なり、却迷也一隻手なるか。」とある。
これは、「大悟」も片方の手を出し、「却迷」も片方の手を出すように、
両者に勝劣がなく、本質的に同じであるということを表しているのである。
「いかやうにても、大悟底人の却迷ありと聴取するを参来の究徹なりとしるべし。却迷を親曾シンゾウならしむる大悟ありとしるべきなり。」とある。
「大悟底人」とだけ言うと、良い「大悟」だけを論じ、悪い「却迷」という言葉を排除しようとしているように思われる。しかし、それでは、善悪の取捨に関わることになり、仏祖が説く迷悟の本意ではなくなる。
「大悟底人」の道理の下には、必ず「却迷」の道理があることを知らなければならない。それを「却迷を親曾ならしむる大悟ありとしるべきなり」と言うのである。
これは、会不会(理解することの上の理解しないこと)、見不見(見ること上の見ないこと〉、聞不聞(聞くことの上の聞かないこと〉の道理であるからである。
「大唐国裏、一人の不悟者を求むるに難得なり」と言いながら、
「悟者をもとむるに難得」であることを知らなければならない、
というのもこの考え方によるものである。
合掌
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