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大迷の人はさらに大悟する 『第十大悟』10-3-2a

〔『正法眼蔵』原文〕

 いはゆる「大悟底人」は、もとより大悟なりとにはあらず、

余外ヨゲに大悟してたくはふるにあらず。


大悟は、公界クガイにおけるを、末上の老年に相見ショウケンするにあらず。


自己より強為ゴウイして牽挽ケンメン出来シュツライするにあらざれども、かならず大悟するなり。


不迷なるを大悟とするにあらず、大悟の種草のためにはじめて迷者とならんと擬すべきにもあらず。


大悟人さらに大悟す、大迷人さらに大悟す。


大悟人あるがごとく、大悟仏あり、大悟地水火風空あり、

大悟露柱ロチュウ灯籠トウロウあり。


いまは大悟底人と問取するなり。


「大悟底人却迷時如何」の問取、まことに問取すべきを問取するなり。


華厳きらはず叢席に慕古モコす、仏祖の勲業クンゴウなるべきなり。



〔『正法眼蔵』私訳〕

 ここに言う、「大悟に徹底した人」は、もともと大悟していたのではなく、

ほかで大悟して蓄えているのでもない。(いはゆる、「大悟底人」は、もとより大悟なりとにはあらず、余外に大悟してたくはうるにあらず。)


大悟は、どこにでもいつでもあるものだから、

晩年に年老いてから出会うものでもない。(大悟は、公界におけるを、末上の老年に相見するにあらず。)


自分から強引に引っ張って出て来るのでもないけれども、必ず大悟するのである。(自己より強為して牽挽出来するにあらざれども、かならず大悟するなり。)


迷っていない状態を大悟とするのではなく、

大悟の種まきのために今さら迷った者になろうとするのでもない。(不迷なるを大悟とするにあらず、大悟の種草のためにはじめて迷者とならんと擬すべきにもあらず。)


大悟の人はさらに大悟し、大迷の人はさらに大悟する。(大悟人さらに大悟す、大迷人さらに大悟す。)


大悟の人があるように、大悟の仏もあり、大悟の地・水・火・風・空クウもあり、大悟の露柱・灯籠もある。(大悟人あるがごとく、大悟仏あり、大悟地水火風空あり、大悟露柱灯籠あり。)


それを今は大悟に徹底した人といって問うたのである。(いまは大悟底人と問取するなり。)


「大悟に徹底した人がかえって迷うとはどういうことでしょうか」の問いは、

実に問うべきことを問うたのである。(「大悟底人却迷時如何」の問取、まことに問取すべきを問取するなり。)


華厳宝智大師はその問いを斥けることなく、叢林ソウリン(修行道場)の古イニシえの慣例にならって答えたが、仏祖のすぐれた行いと言うべきものである。(華厳きらはず叢席に慕古す、仏祖の勲業なるべきなり。)


                          合掌


大迷の人はさらに大悟する 『第十大悟』10-3-2b

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