スキップしてメイン コンテンツに移動

主観・客体の知、つまり二項相対の知にとらわれない『第十大悟』10-1-4b

 〔抄私訳〕

「しかあるに、人根に多般あり。いはく、生知。これは、生じて生を透脱するなり。いはゆるは、生の初中後際に体究なり」。


この「人根に多般あり」とは、「生知」「仏知者」「学知」「無師知」などを指すのである。「生じて生を透脱する」とは、全機(全分の働き)の生のことであるから、「生の初中後際に体究なり」(生の最初から最後まで究めぬいている)というのである。


「いはく、学而知ガクニチ。これは学して自己を究竟す。

いはゆるは、学の皮肉骨髄を体究するなり」。


これは「学して知る」というのである。この「学」も尽十方界の上の「学」であるから、「学の皮肉骨髄を体究す」(学道の皮肉骨髄を身心をもって究めぬく)というのである。


「いはく、仏知者ブッチシャあり。これは生知にあらず、学知にあらず。自他の際を超越チョウオツして、遮裏シャリに無端なり、自他知に無拘ムコウなり」。


「これは生知にあらず、学知にあらず」、「遮裏に無端なり」、

「自他知に無端なり」で、文の通りである。


「いはく、無師知者ムシチシャあり。善知識によらず、経巻によらず、性ショウによらず、相によらず、自を撥転ハッテンせず、他を回互エゴせざれども露堂々なり」。


「無師知者」とあるので、「善知識によらず、経巻によらず」とあるが、もっぱら「経巻」や「知識」(もののありようを会得した人)に随うのをこのように言うのである。その理由ワケは、「経巻」を自己であると知らないから、他に随うことは悪く、自ら悟ることを解脱とするのである。


今は「経巻」が自己である道理を参学する上では、随わない道理があきらかであるから、このように言うのである。「露堂々」とは巍々堂々ギギドウドウ(姿が堂々としていかめしく立派なさま)ということの初めであり、壮麗で整っている義である。


〔聞書私訳〕

/「無師知者ムシチシャあり。善知識によらず、経巻によらず、

ショウによらず、相によらず」と言う、


『法性』の巻では、「あるいは経巻にしたがひ、あるいは知識にしたがうて参学するに、無師独悟するなり」とある。今は「善知識によらず、経巻によらず」と言い、同じではないが、どうか。


この疑いは、いかにもその根拠がある。「無師独悟」(師無くして独り悟る)と「無師知者」(師無くして知る者)は、必ず一つであると理解すべきか、

あるいはそうではないか、しばらくそのままにしておこう。


『法性』の巻で言う「経巻にしたがひ」とある「経巻」は、『法華経』の「十方仏土中唯有一乗法」(十方の仏土の中にはただ法華経だけがある)の意である。


従って、どの「経」に従い、どんな「知識」に逢うとも言い難い。

この前には、〔『法性』の巻の『聞書』で述べた、「無師独悟するなりといふ経巻といふは、尽界を経と説き知識を経巻ともいふ」(師無くして独り悟るという経巻とは、あらゆる世界を経と説き知識を経巻とも言う)ことによって〕、「無師独悟」の意味を理解することができる。


このような「無師独悟」であるから、仏は「我行無師法」(我が行は無師の法である)と言われるので、この上では、外道が仏を問い詰めるような言葉はないのである。


また、「無師知者」は、「衆生如教行、自然成仏道」衆生は教の如く行じ、自然に仏道を成ずの「自然」に理解すべきである。


この「生知」「仏知者」「学而知」「仏智者」「無師知者」と置いて言う時に、先ずただ文に対して「無師」と言うときは、「経巻によらず」「知識によらず」と、〔文の通りに〕理解すべきであり、始終道理に叶うのである。


「経巻知識等によらず」という言葉を深く捉えるなら、「性によらず、相によらず」という「性相」は、またどれほどの義であろうか。一句の言葉であるから、ただ言葉の通りに理解すればよいのである。


/「無師知者」とは、以前長年修行した者が、今龍女が成仏(女人がその身そのまま成仏する)したようなものであろうか。「無師知者」はまた、いわば「尽十方界真実人体」(どこもかしこも真実なるこの身心である)なのである。



                           合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

総裁選挙期間中『正法眼蔵』ブログの配信を休みます。かわりに、

 今回の自民党総裁選挙は、30年の長期低迷中の日本を成長へと大胆に改革していけるか駄目かの運命を決めるものと、私は考えています。9名全員のビジョン・政策・発言を聞き、人気投票で選ばれるような総裁では、日本の成長は無理と考えられます。 そこで、369人の自民党国会議員と 105万人の自民党員が、日本の未来のために正しい判断をしてくれるよう、一つの意見としてSNSで発信しようと考えています。 まず、 拝啓 自民党国会議員各位  として新しいブログを始めました。時折覗いてみてください。またご意見などあれば是非およせください。 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...