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主観・客体の知、つまり二項相対の知にとらわれない 『第十大悟』10-1-4a

 〔『正法眼蔵』原文〕

しかあるに、人根ニンコンに多般タハンあり。


いはく、生知ショウチ


これは生じて生を透脱トウダツするなり。


いはゆるは、生セイの初中後際ショチュウゴサイに体究タイキュウなり。


いはく、学而知ガクニチ


これは学して自己を究竟クキョウす。


いはゆるは、学の皮肉骨髄を体究するなり。


いはく、仏知者ブッチシャあり。


これは生知にあらず、学知にあらず。


自他の際キワを超越チョウオツして、遮裏シャリに無端ムタンなり、自他知に無拘ムコウなり。


いはく、無師知者ムシチシャあり。


善知識によらず、経巻によらず、性ショウによらず、相によらず、

自を撥転ハッテンせず、他を回互エゴせざれども露堂々ロドウドウなり。





〔『正法眼蔵』私訳〕

そうであるが、人の機根にはいろいろある。

(しかあるに、人根に多般あり。)


すなわち、生まれながらの知がある。

これは、生れて生を解脱するのである。

言うところは、生の最初から最後まですべてを究めつくすのである。

(いはく、生知。これは生じて生を透脱するなり。いはゆるは、生の初中後際に体究なり。)


すなわち、学んで得る知がある。

これは、参禅学道して本来の自己を究めつくすのである。

言うところは、参禅学道する皮肉骨髄を身心をもって究めつくすのである。

(いはく、学而知。これは学して自己を究竟す。いはゆるは、学の皮肉骨髄を体究するなり。)


すなわち、仏の知がある。

これは、生れながらの知をはなれて仏の知があるのではなく、

学んで得る知をはなれて仏の知があるのではないのである。

(いはく、仏知者あり。これは生知にあらず、学知にあらず。)


これは、主観・客体の境、つまり二項相対の境を超越して、

今ここで二項相対分別を離れ、

主観・客体の知、つまり二項相対の知にとらわれないのである。

(自他の際を超越して、遮裏に無端なり、自他知に無拘なり。)


すなわち、師無くして知る者がある。

(いはく、無師知者あり。)


自己が善き師匠であるから善き師匠に依らず、

自己が経巻であるから経巻に依らず、

(はたらき)に依らず、

(すがた)に依らず、

自己を回転させて動かすことをせず、

他に依らないけれども堂々とあらわれているのである。

(善知識によらず、経巻によらず、性によらず、相によらず、

自を撥転せず、他を回互せざれども露堂々なり。)



                           合掌


二項相対の知にとらわれない『第十大悟』10-1-4b


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