〔『正法眼蔵』原文〕
しかあるに、人根ニンコンに多般タハンあり。
いはく、生知ショウチ。
これは生じて生を透脱トウダツするなり。
いはゆるは、生セイの初中後際ショチュウゴサイに体究タイキュウなり。
いはく、学而知ガクニチ。
これは学して自己を究竟クキョウす。
いはゆるは、学の皮肉骨髄を体究するなり。
いはく、仏知者ブッチシャあり。
これは生知にあらず、学知にあらず。
自他の際キワを超越チョウオツして、遮裏シャリに無端ムタンなり、自他知に無拘ムコウなり。
いはく、無師知者ムシチシャあり。
善知識によらず、経巻によらず、性ショウによらず、相によらず、
自を撥転ハッテンせず、他を回互エゴせざれども露堂々ロドウドウなり。
〔『正法眼蔵』私訳〕
そうであるが、人の機根にはいろいろある。
(しかあるに、人根に多般あり。)
すなわち、生まれながらの知がある。
これは、生れて生を解脱するのである。
言うところは、生の最初から最後まですべてを究めつくすのである。
(いはく、生知。これは生じて生を透脱するなり。いはゆるは、生の初中後際に体究なり。)
すなわち、学んで得る知がある。
これは、参禅学道して本来の自己を究めつくすのである。
言うところは、参禅学道する皮肉骨髄を身心をもって究めつくすのである。
(いはく、学而知。これは学して自己を究竟す。いはゆるは、学の皮肉骨髄を体究するなり。)
すなわち、仏の知がある。
これは、生れながらの知をはなれて仏の知があるのではなく、
学んで得る知をはなれて仏の知があるのではないのである。
(いはく、仏知者あり。これは生知にあらず、学知にあらず。)
これは、主観・客体の境、つまり二項相対の境を超越して、
今ここで二項相対の分別を離れ、
主観・客体の知、つまり二項相対の知にとらわれないのである。
(自他の際を超越して、遮裏に無端なり、自他知に無拘なり。)
すなわち、師無くして知る者がある。
(いはく、無師知者あり。)
自己が善き師匠であるから善き師匠に依らず、
自己が経巻であるから経巻に依らず、
性(はたらき)に依らず、
相(すがた)に依らず、
自己を回転させて動かすことをせず、
他に依らないけれども堂々とあらわれているのである。
(善知識によらず、経巻によらず、性によらず、相によらず、
自を撥転せず、他を回互せざれども露堂々なり。)
合掌
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