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大悟は去るものではないけれども、他者にしたがって求めるものでもない 『第十大悟』10-3-7a

〔『正法眼蔵』原文〕 而今 ニコン の大悟は、自己にあらず他己にあらず、 きたるにあらざれども填溝塞壑 テンコウソクガク なり。 さるにあらざれども切忌随他覓 セッキズイタミャク 《切に忌む、他に随つて覓 モト むることを》 なり。 なにとしてか恁麼なる。 いはゆる随他去 ズイタコ なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 今の大悟 (大きな悟り) は、自己 (自分の上に現れる自分の様子) にあるのでもなく、他己 (自分の上に現れる他者の様子) にあるのでもなく、 やって来るのでもないけれども、 溝を填 ウ めつくし壑 タニ を塞 フサ いで一杯になるのである。 (而今の大悟は、自己にあらず他己にあらず、きたるにあらざれども填溝塞壑 なり。) 大悟は自分から去るものではないけれども、 他者にしたがって求めるものでもないのである。 (さるにあらざれども切忌随他覓 《切に忌む、他に随つて覓むることを》 なり。) どうして、このよう (而今の大悟は、自己にあらず、他己にあらず、きたるにあらず、さるにあらざれども、填溝塞壑なり、切忌随他覓なり) であるのか。 それは、大悟にしたがっていくからである。 (なにとしてか恁麼なる。いはゆる随他去なり)。 〔以上で、華厳宝智大師の言葉についての道元禅師の御解釈が終る。〕                           合掌 大悟は去るものではないけれども、他者にしたがって求めるものでもない 『第十大悟』10-3-7b ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

大悟は去るものではないけれども、他者にしたがって求めるものでもない 『第十大悟』10-3-7b

  〔抄私訳〕 「而今の大悟は、自己にあらず他己にあらず、きたるにあらざれども填溝塞壑 テンコウソクガク(みちみぞふさげれたるに) なり。さるにあらざれども切忌随他覓 セッキズイタミャク 《切に忌む、他に随つて覓 モト むることを》 なり。なにとしてか恁麼なる。いはゆる随他去 ズイタコ なり。」とある。 過去・現在・未来を立てて、過去は既に過ぎた、未来は未だ来ていないから、現在の「而今」を指すと理解するであろうが、今の「而今」は「大悟」を指すのである。 「自己にあらず他己にあらず」と言うのは、いかにもその意味合いがある。 「きたるにあらざれども填溝塞壑なり」とは、満足している姿、充足の意味である。 「さるにあらざれども切忌随他覓なり」とは、他に随って求めることを忌むというのである。 「随他覓 ミャク(もとめる) 」とは、通り一遍に人に随う様子と理解してはならない。つまるところ、「大悟」にしたがうということである。どうしてこうなるかと言えば、ここでまた、「随他去なり」と言うからである。 これは、言葉を変えたと思われるがただ同じ意味の言葉である。その理由は、「切忌随他覓」も「大悟」で、「随他去なり」も「大悟」であるからである。だから、言葉は違うけれどもただ同じ意味だと言うのである。「大悟」の上の「切忌随他覓」、「大悟」の上の「随他去なり」なのである。 〔聞書私訳〕 /「切忌随他覓」 《せつにいむ、たにしたがってもとむることを》 と言う、これは「大海は死屍 シシ を宿さず」という道理である。 「他に随う」ことはないけれど「忌む」と使うのである。                           合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

大悟を邪魔する迷はない 『第十大悟』10-3-6a

  〔『正法眼蔵』原文〕  これは「大悟」は作仏 サブツ のごとし、「却迷」は衆生のごとし、 還作 ゲンサ 衆生 《還つて衆生と作 ナ る》 といひ、従本垂迹 ジュウホンスイジャク《本より迹を垂る》 とらいふがごとく学すべきにはあらざるなり。 かれは大覚 ダイガク をやぶりて衆生となるがごとくいふ。 これは大悟やぶるゝといはず、大悟うせぬるといはず、迷 メイ きたるといはざるなり。 かれらにひとしむべからず。 まことに大悟無端なり、却迷無端なり。 大悟を罣礙 ケイゲ する迷あらず。 大悟三枚を拈来して、小迷半枚をつくるなり。 こゝをもて、雪山 セッセン の雪山のために大悟するあり、 木石 モクシャク は木石をかりて大悟す。 諸仏の大悟は衆生のために大悟す、衆生の大悟は諸仏の大悟を大悟す、 前後にかゝはれざるべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕  これは、「大悟」は仏に作 ナ ることのようであり、「却迷」は衆生のようであり、仏が還って衆生と作 ナ ると言い、 本来仏である者が衆生教化のために仮の姿となって身を現わす (本地垂迹) など、というように 学ぶべきではないということである。 (これは「大悟」は作仏のごとし、「却迷」は衆生のごとし。還作衆生 《還つて衆生と作 ナ る》 といひ、従本垂迹 《本に従って迹を垂る》 とらいふがごとく学すべきにはあらざるなり。) 還作衆生は、大覚 (仏の悟り) を破って衆生となるかのように言う。 (かれは大覚をやぶりて衆生となるがごとくいふ。) しかしここでは、大悟を破るとも言わず、 大悟が無くなってしまうとも言わず、迷いが来たとも言わないのである。 だからそのような理解と同じだとしてはならない。 (これは大悟やぶるゝといはず、大悟うせぬるといはず、迷きたるといはざるなり。 かれらにひとしむべからず。) 実に大悟にも際限は無く、却迷にも際限は無いのである。 (まことに大悟無端なり、却迷無端なり。) 大悟を邪魔する迷はない。 大悟三つを取り上げて、 少ない迷の半分を作るのである。 (大悟を罣礙する迷あらず。大悟三枚を拈来して、少迷半枚をつくるなり。) 〔大悟と迷が親しく同じものであることをこのように言うのである。〕 こういうわけで、雪山は雪山のために大悟することがあり、 木石は木石を借りて大悟することがあるのである。 (こ...

大悟を邪魔する迷はない 『第十大悟』10-3-6b

  〔抄私訳〕 「これは「大悟」は作仏 サブツ のごとし、「却迷」は衆生のごとし。還作 ゲンサ 衆生 《還つて衆生と作 ナ る》 といひ、従本垂迹 ジュウホンスイジャク《本より迹を垂る》 とらいふがごとく学すべきにはあらざるなり。」とある。 これは日頃、人が 思っている考えを注釈されるのである。用いてはならない考えであるから、「学すべきにはあらざるなり」と嫌われるのである。 「かれは大覚 ダイガク をやぶりて衆生となるがごとくいふ。これは大悟やぶるゝといはず、大悟うせぬるといはず、迷きたるといはざるなり。かれらにひとしむべからず。」とある。 本当に、この「大悟」を説く様子はこのようであり、文の通りである。 「まことに大悟無端なり、却迷無端なり。大悟を罣礙 ケイゲ する迷あらず。」とある。 「大悟」も「迷」も、辺際の無い道理をこのように言うのである。 「大悟を罣礙する迷」は本当にあるはずがなく、 また「迷」を「罣礙する」「大悟」もあるはずがないのである。 「大悟三枚を拈来して、少迷半枚をつくるなり。」とある。 これは、「大悟」と「却迷」が、極めて親しい時このように言われるのである。「大悟三枚を拈来して、少迷半枚をつくる」とは、「大悟」と「却迷」が、ただ同じものである道理をこのように言うのである。 「三枚」という言葉は、「大悟」を「三枚」と使い、「少迷半枚」も「迷」を「半枚」と使うのである。「迷」「悟」が互いに一つのものである道理がはっきりしている。「つくる」というのも、意識して造り出すということではなく、「大悟」と「却迷」の関係を「つくる」とも言うのである。 「こゝをもて、雪山 セッセン の雪山のために大悟するあり、木石 モクシャク は木石をかりて大悟す。諸仏の大悟は衆生のために大悟す、衆生の大悟は諸仏の大悟を大悟す、前後にかゝはれざるべし。」とある。 「雪山の雪山のために」とは、「大悟」は「大悟」のためにというほどのことである。「雪山」は大いなる涅槃 (煩悩 の迷いの火が吹き消され、完全なる智慧の悟りの境地が現成すること ) を喩え、喩えるべきを喩えたという今の「雪山」とは、「大悟」を指すのである。「木石」の言葉もこれと同じである。 「諸仏の大悟は衆生のために大悟す」とは、今の「衆生」とは「大悟」であり、「諸仏の大悟は大悟のために大悟す」という...

まさに鏡が破れる瞬間を言ったのである 『第十大悟』10-3-5a

〔『正法眼蔵』原文〕  師云、「破鏡不重照 ハキョウフジュウショウ 、落花難上樹 ラッカナンジョウジュ 」。  この示衆 ジシュ は、破鏡の正当恁麼時を道取するなり。 しかあるを、未破鏡の時節にこゝろをつかはして、 しかも破鏡のことばを参学するは不是 フゼ なり。 いま華厳道 ケゴンドウ の「破鏡不重照、落花難上樹」の宗旨 シュウシ は、「 大悟底人不重照」といひ、「大悟底人難上樹」といひて、 大悟底人さらに却迷せずと道取すると会取 エシュ しつべし。 しかあれども、恁麼の参学にあらず。人のおもふがごとくならば、 「大悟底人家常如何 カジョウイカン 」とら問取すべし。 これを答話せんに、「有却迷時 ユウキャクメイジ 」とらいはん。 而今の因縁、しかにはあらず。 「大悟底人、却迷時、如何」と問取するがゆゑに、 正当却迷時を未審 ミシン するなり。 恁麼時節の道取現成は、「破鏡不重照」なり、「落花難上樹」なり。 落花のまさしく落花なるときは、百尺 ヒャクシャク の竿頭に昇晋 ショウシン するとも、 なほこれ落花なり。 破鏡の正当破鏡なるゆゑに、そこばくの活計見成 カッケイケンジョウ すれども、 おなじくこれ不重照の照なるべし。 「破鏡」と道取し「落花」と道取する宗旨を拈来して、 「大悟底人却迷時」の時節を参取すべきなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 〔次に、華厳宝智大師の示衆 (師家が学人に対して説法し指導すること) の説明となる。〕   師が言った、「破れた鏡は再び照らすことはない、 落ちた花は樹に戻ることはない」。 (師云、「破鏡不重照、落花難上樹 《破鏡重ねて照らさず、落花樹に上り難し》 」。) この示衆は、まさに鏡が破れる瞬間を言ったのである。 (この示衆は、破鏡の正当恁麼時を道取するなり。) そうであるのに、鏡が破れる前の時に心を遣って、 なおその上に破れた鏡の言葉について学ぶのは間違いである。 (しかあるを、未破鏡の時節にこゝろをつかはして、 しかも破鏡のことばを参学するは不是なり。) 今、華厳宝智大師が言う「破れた鏡は再び照らすことはない、 落ちた花は樹に戻ることはない」の根本の趣旨を、 「大悟に徹した人は再び照らすことはない」と言い、 「大悟に徹した人は樹に戻ることはない」と言うから、 「大悟に徹した人はさらに却って迷うことはない」と理解す...