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正9-3-3b『第九古仏心』第三段その3b〔牆壁瓦礫が牆壁瓦礫である師に向かって言うことがある〕

 〔抄私訳〕

「師いはく、『牆壁瓦礫』。いはゆる宗旨は、牆壁瓦礫にむかひて道取する一進あり、牆壁瓦礫なり。道出する一途イチヅあり、牆壁瓦礫の牆壁瓦礫の許裏コリに道著する一退あり」とある。


前には、「如何是古仏心」の言葉を釈され、今は、師の答えの「牆壁瓦礫」の言葉を釈されるのである。僧の問いの言葉、師の答えの言葉、あれとこれとがあるように思われるが、つまるところ、今の解釈は、この道理は「牆壁瓦礫」が「牆壁瓦礫」と問答したということである。


問う僧も答える師も、けっして「牆壁瓦礫」のほかのものでないからである。「進」も「退」も「出」も「入」も、みな「牆壁瓦礫」の上の「進」「退」「出」「入」なのである。


「これらの道取の現成するところの円成十成に、千仭万仭センジンバンジンの壁立ヘキリュウせり、ソウチソウテンの牆立ショウリュウあり、一片半片の瓦蓋ガガイあり、乃大乃小ナイダイナイショウの礫尖リャクセンあり」とある。


「円成十成」とは、欠けた所がない言葉であり、充足しているのである。「これらの道取」とは、上の「師いはく、『牆壁瓦礫』」以下の言葉を指すのである。


「牆壁瓦礫」の四字を一文字ずつ釈されるのである。「壁」も「千仭万仭」、「牆」も「天」、「瓦」も「一片半片」、「礫」も「乃大乃小」というのである。それぞれの字は、みな他のものに関係なく、それぞれ独立している道理である。


本の言葉は「牆壁瓦礫」とあるので、まず「牆」の言葉が出てくるべきであるが、この道理の上では前後の差別の義はないのである。誤って「壁」の字を先ず釈されるのは何か差し支えがあるのかとも、気をつけて考えるべきである、能所彼此ノウジョヒシ(主客自他)の前後を際断するからである。これらの道理を「円成十成」とも言うのである。「天」は広く、「一片半片」は狭いと思ってはならない、「円成十成」の理であるからである。


「かくのごとくあるは、たゞ心のみにあらず、すなはちこれ身なり、乃至依正エショウなるべし。しかあれば、作麼生是牆壁瓦礫と問取すべし、道取すべし。答話せんには、古仏心と答取すべし」とある。


これは、「古仏心」という「心」の語だけではなく、この「心」という語に替えて、「身」とも「依正」とも言うことができるというのである。つまるところ、「古仏身」「古仏眼」「古仏依正」「古仏鼻孔」とも、さまざまに言うことができる道理をこのように釈されるのである。


本の語では、「如何是古仏心」と問うと、「牆壁瓦礫」と答えられる。それをこの道理の上は、「作麼生是牆壁瓦礫と問取すべし」というのである。


これをまた、「答話せんには、古仏心と答取すべし」というのである。本の言葉を打ち替えて問答する、即ちこの道理に違わないのである。


〔聞書私訳〕

「作麼生是牆壁瓦礫」とは、「仏」に種々の「仏」があり、「心」に種々の「心」があり、「牆壁瓦礫」に種々のすがたがあるというのである。或いは「一進」、或いは「一退」、或いは「一片」、或いは「半片」とも言うのである。「古仏心」と「牆壁瓦礫」は一つであるからである。


/今、「古仏心」とあるが、我々が思うような新古のことと決して心得てはならない。仏が成道する時は、必ず久遠実成の仏であることを表される。この言葉によって執着している心を揺り動かすのである。


新たに成った仏は、ちょうど今、五百塵点刧の大昔に成仏したと言われるのである。だから、悟りに差別がないのは、「仏」も「国」も、「新」も「古」もその違いはないのである。


(森羅万象)と理(真如)の二つを立てることに「古」と「今」と定めるのは、迷妄の方である。ただ、事理はともに仏法と言えば、事理にその違いはなく、理の方に古今の区別はないのである。


/「古心」も「古仏」であり、別ではない。「這頭」も「那頭」も、「古仏」である。今の「古心」は「古仏」である。我が身は「古仏」であると心得るべきであり、また、尽きることのない我が身なのである。



                      合掌



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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

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〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...