〔『正法眼蔵』原文〕
このゆゑに、花開ケカイの万木百草、これ古仏の道得なり、古仏の問処なり。
世界起の九山八海クセンハッカイ、これ古仏の日面月面ニチメンガチメンなり、古仏の皮肉骨髓なり。
さらに又古心の行仏なるあるべし、古心の証仏なるあるべし、
古心の作仏なるあるべし、仏古の為心なるあるべし。
古心といふは、心古なるがゆゑなり。
心仏はかならず古なるべきがゆゑに、古心は椅子竹木なり。
尽大地覓一箇会仏法人不可得《尽大地、一箇の仏法を会する人を覓モトむるに不可得》なり、和尚喚這箇作甚麼カンシャコソシモ《和尚這箇を喚んで甚麼ナニとか作セん》なり。
いまの時節因縁および塵刹虚空ジンセツコクウ、ともに古心にあらずといふことなし。
古心を保任する、古仏を保任する、一面目にして両頭保任なり、両頭画図ガズなり。
〔『正法眼蔵』私訳〕
どのようなものもみな古仏心であるから、花の開くあらゆる木や草も、
みな古仏の真理を道イい得た言葉であり、古仏の問いなのである。
(このゆゑに、花開の万木百草、これ古仏の道得なり、古仏の問処なり。)
世界の中心にある須弥山シュミセンを取りまく九山八海クセンハッカイも、
みな古仏の日面月面(大小・遠近・明暗など色々な二項相対する様々な現れ)であり、
古仏(仏の中の仏)の皮肉骨髄である。
(世界起の九山八海、これ古仏の日面月面なり、古仏の皮肉骨髓なり。)
さらに言えば、古仏心が行仏(仏を行ずる仏)でもあり、古心が証仏(仏を証する仏)でもあり、古心が作仏(仏となる仏)でもあり、仏古の心とする(釈尊も達磨大師も我々一人一人もみな古仏心である)こともあるのである。
古仏心とは、心古である(古も仏も心もあらゆるものはみな古仏心である)からである。
(さらに又古心の行仏なるあるべし、古心の証仏なるあるべし、古心の作仏なるあるべし。
仏古の為心なるあるべし。古心といふは、心古なるがゆゑなり。)
〔『正法眼蔵』第五巻で、「即心是仏」を「心即是仏」といろいろ入れ替えて釈されたように、「古」も「仏」も「心」も違いはなく交換可能であるから、このようにいろいろと言えるのである。〕
心仏は必ず古である(古も仏も心もあらゆるものはみな古仏心である)から、
古仏心は椅子であり竹木である(三界唯心である)。
(心仏はかならず古なるべきがゆゑに、古心は椅子竹木なり。)
どこを探しても仏法を心得ているという特別な人はいない。
和尚は、これを呼んでどうしようというのか、というのである。
(尽大地覓一箇会仏法人不可得《尽大地、一箇の仏法を会する人を覓むるに不可得》なり、
和尚喚這箇作甚麼《和尚這箇を喚んで甚麼とか作ん》なり。)
たった今の様子も広大無辺の大地空間も、みな古仏心でないものは何もない。
(いまの時節因縁および塵刹虚空ジンセツコクウ、ともに古心にあらずといふことなし。)
古仏心を保任(保ち続ける)し、古仏を保任するから、一つの様子のままで古仏心と古仏を保任し、古仏心と古仏を実現するのである。
(古心を保任する、古仏を保任する、一面目にして両頭保任なり、両頭画図なり。)
合掌
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