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正9-3-2b『第九古仏心』第三段その2b〔どのようなものもみな古仏心である〕

 〔抄私訳〕

「このゆゑに、花開ケカイの万木百草、これ古仏の道得なり、古仏の問処なり。世界起の九山八海クセンハッカイ、これ古仏の日面月面ニチメンガチメンなり、古仏の皮肉骨髓なり」とある。


これは、「花開」「万木百草」あるいは「世界起の九山八海」などが、みな「古仏心」であるというのである。


「さらに又古心の行仏なるあるべし、古心の証仏なるあるべし、古心の作仏なるあるべし。仏古の為心なるあるべし。古心といふは、心古なるがゆゑなり。」とある。


これは、「即心是仏」を「心即是仏」と入れ替えていろいろ釈されたのと同じ意味合いである。「古」「仏」「心」という言葉を一つ一つ釈されるのである。つまるところ、「古」も「仏」も「心」も差別がないから、このように言われるのである。よくよく考えてみるべきことである。


「心仏はかならず古なるべきがゆゑに、古心は椅子竹木なり。尽大地覓一箇会仏法人不可得《尽大地、一箇の仏法を会する人を覓モトむるに不可得》なり、和尚喚這箇作甚麼カンシャコソシモ《和尚這箇を喚んで甚麼ナニとか作ん》なり」とある。


これは、古い禅師の言葉から引き出されたものである。この因縁は別に注釈する。


「いまの時節因縁および塵刹虚空ジンセツコクウ、ともに古心にあらずといふことなし。古心を保任する、古仏を保任する、一面目にして両頭保任なり、両頭画図ガズなり」とある。


「時節因縁」「塵刹虚空」とは、尽十方界という意味合いであり、全天全地と等しいと言うのと同じである。


「古心を保任する、古仏を保任する」「一面目」とは、「心」と「仏」は別物でない所を「一面目」と言うのである。そうであるので、また「古心を保任する、古仏を保任する」という言葉の出てくる所を、「両頭保任」とも「両頭画図」ともしばらく言われるのである。


〔聞書私訳〕

/「古心の行仏なるあるべし、古心の証仏なるあるべし、古心の作仏なるあるべし」とは、「古仏心」の様々な様子であり、「心仏及衆生、是三無差別」(心と仏と衆生、この三つは差別がない)の意味合いである。


/「尽大地、一箇の仏法を会する人を覓むるに不可得」とは、

例えば、「尽大地、古心を覓むるに不可得」「尽大地、古仏を覓むるに不可得」というようなことである。


/「両頭画図」とは、「古心」「古仏」の「画図」実現)を言うのである。


                       合掌



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