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正8『第八心不可得』完 〔『正法眼蔵』評釈〕〔考察:道元禅師は「心不可得」で何を示そうとされたのか〕

おほよそ心不可得とは、画餅ガビョウ一枚を買弄マイロウして、一口に咬著嚼尽コウヂャクシャクジンするをいふ〈およそ心不可得とは、画に描いた餅を一つ買ってほしいままにし一口で咬み尽くすとこと〈修証一等の解脱〉を言うのである〉とあります。


道元禅師が「心不可得」で何を示そうとされたのか、

「画餅」を手がかりに、改めてどういうことをお示しになろうとされたのか

考えてみたいと思います。


さて、道元禅師は『正法眼蔵第二十四画餅』の中で、画に描いた餅でなくては、

飢えを充たすことはできない、とお示しになっておられます。


「ただまさに尽界尽法は画図ガトなるがゆえに、人法ニンポウは画より現じ、

仏祖は画より成ジョウずるなり。しかあればすなわち画餅ガビョウにあらざれば、

充飢ジュウキの薬ヤクなし、画飢ガキにあらざれば人ニンに相逢アイオウせず、

画充ガジュウにあらざれば力量あらざるなり」

(あらゆる世界、あらゆるものは描かれた画であるから、人もものも画から現れ、

仏祖も画から成就するのである。したがって、画に描いた餅でなければ、

飢えを充たす薬はなく、画に描いた飢えでなければ、真の自己に逢わず、

画に描いた飢えを充たすことでなければ解脱の力量はないのである)といわれています。


「画餅」とは、「画餅にあらざれば充飢の薬なし」(画に描いた餅でなければ飢を充たす薬はない)とされ、仏法が充足していない飢餓状態を解消するのは、

「画餅」だけだと言われています。いわば「画餅」は成仏への道であると同時に、

成仏そのものでもあるという修証一等(悟りへと向かう修行と、修行の結果得られる悟りとが一つである)のことを言われていると思われます。


だから、飢えを充たす餅でありながら、画に描いた餅であることで、

また飢えてしまうのです。この矛盾的状態(不可得=得ようとしても得られない)

が原動力となって、修証が円環的にどこまでも進んでいくのです。

そして、その事実を自覚することが解脱です。


一方、「心」(たった今の様子)は「三界唯心」の「心」です。全宇宙のあらゆるもののありようが「心」であり、「心」は全宇宙のあらゆるもののありようです。

「心」(たった今の様子)は過去現在未来であり、山河大地であり、

生老病死であり、太陽であり銀河であり、自であり他であり、

苦であり楽であり、善であり悪であり、仏であり衆生なのです。


「心不可得」とは、全宇宙のあらゆるもののありようである「心」(たった今の様子)は「不可得」(得ようとしても得られない)という矛盾的ありようであることを言い表します。


あらゆるもの(「心」)は得ようとしても得られないという矛盾的ありよう(「不可得」)が原動力となって、修証一等としてこの身心の上において無始無終に行じられ続けていくのです。

これが身心脱落です、解脱ですと、

道元禅師はおっしゃっておられるのではないでしょうか。



〔『正法眼蔵』本文〕

正法眼蔵第八

 爾時ニイジ仁治二年辛丑シンチュウ夏安居ゲアンゴ雍州ヨウシュウ宇治郡観音導利興聖宝林寺示衆

〔『正法眼蔵』私訳〕

正法眼蔵涅槃妙心(釈尊が体得した甚深不可思議なありよう)第八心不可得(心は不可得であり、不可得こそ心である)の巻終わる

 その時仁治二年(西暦1241)辛丑カノトウシ夏安居の時、雍州宇治郡の仏徳山観音導利院興聖宝林寺(興聖寺)において衆に示す 


                        合掌



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