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正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

正9-3-4b『第九古仏心』第三段その4b〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

  〔抄私訳〕 「師いはく、『牆壁瓦礫』。いはゆる宗旨は、牆壁瓦礫にむかひて道取する一進あり、牆壁瓦礫なり。道出する一途 イチヅ あり、牆壁瓦礫の牆壁瓦礫の許裏 コリ に道著する一退あり」とある。 前には、「如何是古仏心」の言葉を釈され、今は、国師の答えの「牆壁瓦礫」の言葉を釈されるのである。 僧の問いの言葉、師の答えの言葉、あれとこれとがあるように思われるが、つまるところ、今の御釈は、この道理は「牆壁瓦礫」が「牆壁瓦礫」と問答したということである。 問う僧も答える師も、けっして「牆壁瓦礫」のほかのものでないからである。 「進」も「退」も「出」も「入」も、みな「牆壁瓦礫」の上の「進」「退」「出」「入」なのである。 「これらの道取の現成するところの円成十成に、千仭万仭 センジンバンジン の壁立 ヘキリュウ せり、 迊 地 迊 天 ソウチソウテン の牆立 ショウリュウ あり、一片半片の瓦蓋 ガガイ あり、乃大乃小 ナイダイナイショウ の礫尖 リャクセン あり」とある。 「円成十成」とは、欠けた所がない言葉であり、充足しているのである。 「これらの道取」とは、上の「師いはく、『牆壁瓦礫』」以下の言葉を指すのである。「牆壁瓦礫」の四字を一字ずつ釈されるのである。 「壁」も「千仭万仭」、「牆」も「 地 天」、「瓦」も「一片半片」、「礫」も「乃大乃小」というのである。それぞれの字は、みな他のものに関係なく、それぞれ独立している道理である。 本の言葉は「牆壁瓦礫」とあるので、まず「牆」の言葉が出てくるべきであるが、この道理の上では前後の差別の義はないのである。 誤って「壁」の字を先ず釈されるのは何か差し支えがあるのかとも、気をつけて考えるべきである、能所彼此 ノウジョヒシ(主客自他) の前後を際断するからである。これらの道理を「円成十成」とも言うのである。 「 迊 地 迊 天」は広く、「一片半片」は狭いと思ってはならない、「円成十成」の理であるからである。 「かくのごとくあるは、たゞ心のみにあらず、すなはちこれ身なり、乃至依正 エショウ なるべし。しかあれば、作麼生是牆壁瓦礫と問取すべし、道取すべし。答話せんには、古仏心と答取すべし」とある。 これは、「古仏心」という「心」の語だけではなく、この「心」という語に替えて、「身」とも「依正」とも言うことができる...

正9-3-3a『第九古仏心』第三段その3a〔牆壁瓦礫が牆壁瓦礫である師に向かって言うことがある〕

  〔『正法眼蔵』原文〕 .師いはく、牆壁瓦礫 ショウヘキガリャク 。  いはゆる宗旨は、牆壁瓦礫にむかひて道取する一進あり、牆壁瓦礫なり。 道出する一途 イチヅ あり、牆壁瓦礫の牆壁瓦礫の許裏 コリ に道著する一退あり。 これらの道取の現成するところの円成十成に、千仭万仭 センジンバンジン の壁立 ヘキリュウ せり、 迊 地 迊 天 ソウチソウテン の牆立 ショウリュウ あり、一片半片の瓦蓋 ガガイ あり、乃大乃小 ナイダイナイショウ の礫尖 リャクセン あり。 かくのごとくあるは、ただ心のみにあらず、すなはちこれ身なり、乃至依正 エショウ なるべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕  〔「如何なるかこれ古仏心」と問われて、〕  師は「牆壁瓦礫 (垣、壁、瓦、小石) 」と言う。  (師いはく、「牆壁瓦礫」。) 〔この時、尽界は 牆壁瓦礫のみで、余物がない。 〕  この根本の趣旨は、牆壁瓦礫が牆壁瓦礫である国師に向かって言うことがあるが、 それは牆壁瓦礫であるということである。 (いはゆる宗旨は、牆壁瓦礫にむかひて道取する一進あり、牆壁瓦礫なり。) 〔問う僧も答える師も、「牆壁瓦礫」のほかのものでないからである。〕 言葉を出すことがあるが、 それは牆壁瓦礫である師が牆壁瓦礫の内から言うことである。 (道出する一途あり、牆壁瓦礫の牆壁瓦礫の許裏に道著する一退あり。) 僧の問いも、師の答えもどちらも仏法を完全に言い抜いているから、 〔古仏心は隠れてしまい牆壁瓦礫のみとなるが、牆壁瓦礫と一括りにするのではなく〕、 壁という時は千万丈もの高さでそびえ立つ壁のみで余物はなく、 牆という時は牆の蓋天蓋地で余物はなく、 瓦という時は一片半片の瓦のみで余物はなく、 礫という時は 大小の尖った 礫 のみで余物はないのである。 (これらの道取の現成するところの円成十成に、千仭万仭の壁立せり、 迊 地 迊 天 の牆立あり、一片半片の瓦蓋あり、乃大乃小の礫尖あり。) 〔みなそれぞれが絶対で独立している。〕 このようにあるのは、ただ心だけでなく、身でもあり、 或いは依報 (身心) 正報 (環境) でもあるのである。 (かくのごとくあるは、ただ心のみにあらず、すなはちこれ身なり、乃至依正 エショウ なるべし。) 〔つまるところ、古仏心だけでなく、古仏身、古仏依正、古仏眼 睛 、古...

正9-3-3b『第九古仏心』第三段その3b〔牆壁瓦礫が牆壁瓦礫である師に向かって言うことがある〕

  〔抄私訳〕 「師いはく、『牆壁瓦礫』。いはゆる宗旨は、牆壁瓦礫にむかひて道取する一進あり、牆壁瓦礫なり。道出する一途 イチヅ あり、牆壁瓦礫の牆壁瓦礫の許裏 コリ に道著する一退あり」とある。 前には、「如何是古仏心」の言葉を釈され、今は、師の答えの「牆壁瓦礫」の言葉を釈されるのである。僧の問いの言葉、師の答えの言葉、あれとこれとがあるように思われるが、つまるところ、今の解釈は、この道理は「牆壁瓦礫」が「牆壁瓦礫」と問答したということである。 問う僧も答える師も、けっして「牆壁瓦礫」のほかのものでないからである。「進」も「退」も「出」も「入」も、みな「牆壁瓦礫」の上の「進」「退」「出」「入」なのである。 「これらの道取の現成するところの円成十成に、 千仭万仭 センジンバンジン の壁立 ヘキリュウ せり、 迊 地 迊 天 ソウチソウテン の牆立 ショウリュウ あり、一片半片の瓦蓋 ガガイ あり、乃大乃小 ナイダイナイショウ の礫尖 リャクセン あり」とある。 「円成十成」とは、欠けた所がない言葉であり、充足しているのである。「これらの道取」とは、上の「師いはく、『牆壁瓦礫』」以下の言葉を指すのである。 「牆壁瓦礫」の四字を一文字ずつ釈されるのである。「壁」も「千仭万仭」、「牆」も「 迊 地 迊 天」、「瓦」も「一片半片」、「礫」も「乃大乃小」というのである。それぞれの字は、みな他のものに関係なく、それぞれ独立している道理である。 本の言葉は「牆壁瓦礫」とあるので、まず「牆」の言葉が出てくるべきであるが、この道理の上では前後の差別の義はないのである。誤って「壁」の字を先ず釈されるのは何か差し支えがあるのかとも、気をつけて考えるべきである、能所彼此 ノウジョヒシ(主客自他) の前後を際断するからである。これらの道理を「円成十成」とも言うのである。「 迊 地 迊 天」は広く、「一片半片」は狭いと思ってはならない、「円成十成」の理であるからである。 「かくのごとくあるは、たゞ心のみにあらず、すなはちこれ身なり、乃至依正 エショウ なるべし。しかあれば、作麼生是牆壁瓦礫と問取すべし、道取すべし。答話せんには、古仏心と答取すべし」とある。 これは、「古仏心」という「心」の語だけではなく、この「心」という語に替えて、「身」とも「依正」とも言うことができる...