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正8-1-5『第八心不可得』第一段5 原文私訳〔悟りをも超越した古仏ではなかった〕

 〔『正法眼蔵』原文〕

つらつらこの婆子バスと徳山と相見ショウケンする因縁をおもへば、

徳山のむかしあきらめざることは、いまきこゆるところなり。


龍潭リュウタンをみしよりのちも、なほ婆子を怕却ハキャクしつべし。


なほこれ参学の晩進なり、超証の古仏にあらず。


婆子そのとき徳山を杜口トコウせしむとも、

実にその人なること、いまださだめがたし。


そのゆゑは、「心不可得」のことばをききては、

「心、うべからず、心、あるべからず」とのみおもひて、

かくのごとくとふ。


徳山もし丈夫ジョウブなりせば、婆子を勘破カンパするちからあらまし。


すでに勘破せましかば、

婆子まことにその人なる道理もあらはるべし。


徳山いまだ徳山ならざれば、

婆子その人なることもいまだあらはれず。



〔『正法眼蔵』私訳〕

よくよくこの老婆と徳山の出会いの因縁を考えてみると、

徳山がその時、仏道を明らめていなかったことは、

今知られる通りである。

(つらつらこの婆子と徳山と相見する因縁をおもへば、

徳山のむかしあきらめざることは、いまきこゆるところなり。)


龍潭にまみえた後も、なおこの老婆を怖れていたであろう。

(龍潭をみしよりのちも、なほ婆子を怕却しつべし。)


やはり彼が参禅学道の晩進(仏道修行の初心者)であり、

悟りをも超越した古仏ではなかったということである。

(なほこれ参学の晩進なり、超証の古仏にあらず。)


老婆がその時、徳山を黙らせてしまったとしても、

老婆が真に道を得た人であったかどうかは、未だに決められない。

(婆子そのとき徳山を杜口せしむとも、実にその人なること、

いまださだめがたし。)


その理由は、老婆は心不可得の言葉を聞いて、

心は得ることができず、心は存在するものではないとだけ考えて、

このように問うたからである。

(そのゆゑは、心不可得のことばをききては、

心、うべからず、心、あるべからずとのみおもひて、かくのごとくとふ。)


徳山がもし丈夫(仏道修行を充分にした者〉であったならば、

老婆の力を見抜く力があったであろう。

(徳山もし丈夫なりせば、婆子を勘破するちからあらまし。)


すっかり見抜いたならば、

老婆が真に道を得た人であるかどうかも明らかになったであろう。

(すでに勘破せましかば、婆子まことにその人なる道理もあらはるべし。)


徳山がまだ本来の面目の徳山でなかったから、

老婆が道を得た人であったかどうかも未だに分からないのである。

(徳山いまだ徳山ならざれば、婆子その人なることもいまだあらはれず。)



                       合掌



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