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正8-1-2b『第八心不可得』第一段2b 聞書抄〔徳山宣鑑禅師が金剛般若経を明らめたと自称した〕

 〔抄私訳〕

この三世の心を一般に心得る様子は、過去は既に過ぎ、現在は留まらず、未来はまだ来ていないから、過去・現在・未来の三世はみな得ることが出来ないと心得る。今、仏祖が三世の心を心得るさまはこれとは異なるのである。


そのわけは、「不可得裏に過去現在未来の窟籠を来」するからである。それというのは、三世を主にして、これが「不可得」だと言うのではなく、「不可得」のうちで三世を談ずるからである。「不可得」を、過去とも現在とも未来とも使うのである。諸悪の時、莫作の理であるのと同じである。


「自家」とは「心不可得」を言うのである。行住坐臥が、ことごとく「心不可得」の道理であるから、「使得十二時の渾身、これ心不可得なり」と言うのである。


「仏祖の入室あらざれば、心不可得の問取なし、道著なし、見聞せざるなり」と言うのは、いかにもその趣旨がある。


これ以後の言葉は文の通りである。宣鑑禅師と老婆の問答の次第を、委しくこれを明らかにされる。文の通り心得るべきであり、別に子細はない。

《傍注:南方とは六祖の在所、北地とは神秀の在所である。》


〔聞書私訳〕

/「青龍疏セイリュウノショをよくせり」と言う、

『金剛経』の注釈書が数多くある中で、

「青龍」の注釈書をよく学んだというのである。


/「和尚もし道得ならんには、もちひをうるべし」と言う、

つまるところ、「道得」なら「うるべし」、「道不得」なら「うるべからず」と言ってはならない、勝劣はないのである。


三界を買って心に点じる少量の食事を心胸=腹に点ずる

言うのである、三界唯一心であるからである。


/仏法で言うときには、「うゑ」を三界の法の「画にかける」にたとえる。諸法実相と心得るのが、「うゑ」を支えるのであるから、「画にかけるもちひ、うゑを」支えると言うのである。


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