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正7-7-2a『第七一顆明珠』完 第七段2a 原文私訳〔心と思われているものは私ではない〕

 〔『正法眼蔵』原文〕

 しかあれども、われもなんぢも、いかなるかこれ明珠、


いかなるかこれ明珠にあらざるとしらざる百思百不思ヒャクシヒャクフシは、


明々メイメイの草料ソウリョウをむすびきたれども、玄砂の法道ホウドウによりて、


明珠なりける身心シンジンの樣子をもきゝしり、あきらめつれば、


シンこれわたくしにあらず、起滅をたれとしてか明珠なり、


明珠にあらざると取舎にわづらはん。


たとひたどりわづらふとも、明珠にあらぬにあらず、


明珠にあらぬがありておこさせける行ギョウにも念にもにてはあらざれば、


たゞまさに黒山鬼窟の進歩退歩、これ一顆明珠なるのみなり。






〔『正法眼蔵』私訳〕 

そうであるが、我も汝も、何が明珠か、何が明珠ではないかを知らず、

さまざまに思ったり思わなかったりしたのは、

みな明らかな分別妄想であったが、

(しかあれども、われもなんぢも、いかなるかこれ明珠、

いかなるかこれ明珠にあらざるとしらざる百思百不思は、明々の草料をむすびきたれども、)


玄砂の「尽十方世界是一顆明珠」という法の言葉によって、

明珠である身心の様子を知り、明らめてみると、

ココロと思われているもは私ではない。

生じたり滅したり入り乱れてまとまりのない一々を、

一体誰がどれが明珠であり、

どれが明珠でないと取捨に思い煩うことがあろうか。

(玄砂の法道ホウドウによりて、明珠なりける身心シンジンの樣子をもきゝしり、あきらめつれば、心シンこれわたくしにあらず、起滅をたれとしてか明珠なり、明珠にあらざると取舎にわづらはん。)


たとえそう言われても、自分は明珠でないと思い煩っても、

〔汝が受け肯わないだけで〕決して明珠でないのではなく、

(たとひたどりわづらふとも、明珠にあらぬにあらず、)


明珠でない一物があって、行や念を起こさせたのではないから、

ただまさに黒山鬼窟〈煩悩妄想〉と思っている日常の起居進退が、

みな一個の明珠にほかならないのである。

(明珠にあらぬがありておこさせける行ギョウにも念にもにてはあらざれば、

たゞまさに黒山鬼窟の進歩退歩、これ一顆明珠なるのみなり。)


〔『正法眼蔵』原文〕 

正法眼蔵一顆明珠第七

 爾時ニイジ嘉禎四年四月十八日雍州ヨウシュウ宇治県観音導利興聖宝林寺示衆

 寛元元年癸卯ミズノトウ閏七月二十三日書写越州吉田郡志比莊吉峰寺院

主房侍者比丘懐弉エジョウ


〔『正法眼蔵』私訳〕 

正法眼蔵一顆明珠第七巻終わる

時に、嘉禎四年(1238年)四月十八日、雍州宇治県、

観音導利興聖宝林寺で衆に示した。


寛元元年(1243年)癸卯閏七月二十三日、越州吉田郡志比莊、

吉峰寺で書写した。院主房

                         侍者 比丘 懐弉





                         合掌



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